私の音楽歴略歴

略歴

小学校以前
・幼少の時より家でクラシック音楽がかかっていた。
・幼稚園が東北学院大学系の教会が付属したところだったので小学校三年生まで日曜学校に通い大人と一緒に歌を歌う。このさい、聖歌集が椅子に備え付けてあり、初めて聞く曲でも調子を合わせて歌わなければいけないが、ほとんどの曲の進行とエンディングは一度聞くと予見できることが分かり、曲の一番では歌ってるふりをして聴くことに集中して聞けば二番は歌えることに気が付く。

小学校
・幼児から兄が通うエレクトーン教室に小学校4年頃まで通う。まだ背が低くベース音を弾く足が届かないためか、先生は作曲をよく教えてくれる。四和音、その転回形、メロディックマイナー、ハーモニックマイナー等習う。
・近所のエレクトーン教室が閉校となりしばらく楽器から遠ざかる。学校のラジオ仲間と自作ラジオを作り聴きびたる。当時の日本のポピュラー音楽の中では、すでにフォークブームが終わっていて、沢田研二が好きだった。
・父親がウェスタン映画好きだったため、300円程度で2本観れる(実際は一度お金を払えば時間制限なくいつまでいても良い)映画館に連れていかれる。当時映画と映画の合間の入れ替えの時間はスイング・ジャズやカントリー音楽がかかることが多かった。自然に覚えた曲も多く大人になってから、「あれ、これ知ってるぞ」と思い出す曲が多くある。
・小学校五年頃からアリスのラジオ番組「ハンドインハンド」を熱心に聴くが、ハンドインハンドをやるやると言ってやらなかったことが分かり、大人はウソをつくこともあると悟る。当時大人にも実現できないことがあるという考えには至らなかった。
・小学校六年時、友人の家にアコースティックギターがあって、一緒に弾かないかと言われたことから、母親にギターを買ってもらう。最初のギターはPro.MartinのD-45のコピーで現在も使っている。
・変にコード理論を知っていたので、ギターの弦がピアノの転回の様に配列されていないことに驚き、若干嫌になる。
・この頃JASRACはなかったので、街の本屋で立ち読みをする際は店主が勝手にかけているABBAなどの初期ディスコやブラックミュージックを多く耳にする。

中学時代
・中学に入ると周りに洋楽のレコードを収集している者が数人いて、お互いにレコードを回し聴き始める。EL&P,イエス、キングクリムゾン、ピンクフロイド、クイーン、グランドファンクレイルロード、クリーム、ウリ・ロート時代のスコーピオンズ、ディープパープル、レイラ期のクラプトン、当時人気のあったピーターフランプトンを聞く。
・中一の時出会った友人がエレキを持っていることを知り見せてもらう。彼がフェルナンデスの黒いストラトを見せてくれる。彼は今も東京で元気に演奏している。
・新聞配達で貯めた金でクラプトンやウリロートに憧れていたので、白いフェルナンデスのストラトを買う。これは現在も持っているが、21Fしかなく、プレイスタイルに合わないので使っていない。
・そのストラトのヘッドは、タバコを挟んで焼け焦げを作ったクラプトンに憧れて、はんだごてで焼け焦げを付けてみて満足したが少し悲しかった。
・最初にコピーしたロックバンドの曲はアコギでコピーしたピーターフランプトンのショウミーザウェイのイントロか、クイーンの1枚目のSun and Daughterのリフだと思う。それ以前はアコギでビートルズのAnd I love Herや沢田研二の曲をコピーした。
・初めて一曲コピーした洋楽は音楽雑誌に譜面が載っていたクリームのサンシャインオブユアラブ。Charが監修したクラプトンの教則本からクロスロードを学び完コピする。ツエッペリンの天国への階段やパープルのスモークオンザウォーターを完コピし、ほか印象的なリフも次々コピーする。
・ソロはウリ・ロートやリッチーがスゴイが、リフはペイジだなとギタリストの個性に気付き始める。総合的にクリーム時代のクラプトンがスゴイと感じる。
・当時輸入盤でしか手に入らなかったヴァンヘイレンの1枚目を仙台のサンリツ楽器店でゴミのように床に置かれているのを発見し、購入して衝撃を受ける。が良く聴くとライトハンド(タッピング)以外はクラプトンと同じフレーズを弾いていることが分かり安心する。しかしバッキングがエディーは踊っているようで華やかなのでこういうギターは楽しいと思うようになる。
・小学校のラジオ制作趣味のノリで、サンリツ楽器で売っていたディストーション自作キットをくみ上げて最初のエフェクターになる。しかし音が好きでなく、ヴァンヘイレンの音に似ている、荒々しいMAXONのD&Sを買い、しばらくこれを使う。次に買ったのはジミヘンのようにジムダンロップのワウペダルが欲しかったが当時高額だったので、BOSSのオートワウを買う。ぺよーんと言う音が気に入らない。
・アルミの箱にスピーカーとピアニカの蛇腹ホースを付けてみて、アンプのアウトから線を引き、トーキングボックスを自作してみる。ピーターフランプトンの真似ができるのは面白かったが、頭が痛くなりすぐ止める。
・要らないエレキを親切にタダでくれた友人がいた。60年代のセミアコのビザールギターだった。ディーボの切り刻んだギターを雑誌で見て衝撃を受けて切り刻んでみた。何度か音はどうだった、と彼に聞かれたりしたがうまく返事ができなかった。申し訳ないと思う。ドンドン切り刻んで最後はボルトオンのネックとピックアップだけになったがそのネックとパーツを使ってエディー・ヴァンヘイレンに憧れてバルサ材をホームセンターで買ってきてでエクスプローラー型のボディを作ってみたが、ピッチが合わないのと、配線をする時間がなく計画中止。ブライアンメイがギターを自作したという話はウソではないかと疑う。この残ったピックアップだけは現在も持っている。
・中学に入ってから地元のミュージシャンが出るコンサートに足しげく通って最後まで聞くようにする。これはこれからミュージシャンを目指す者には大事なことである。見たいバンドだけ見て帰ってはいけないのである。大体チケットが300円なので新聞配達のバイトで賄えた。当時印象的だった演奏が二つあり、一つは仙台のYAMAHAで行われた一人だけのギタリストの演奏で、黒いレスポールタイプの歪んだギターを旋律もメロディーも無くノイズとしてグワングワンドオドドオオオと鳴らしていた。いつまでもやめないので司会者が30分経ちましたはいストップと中止させた。最初呆れていた観客も15分過ぎくらいからノリノリになり手拍子をしていたのに残念だった。彼は今の大友良英なのではないか、と思う。彼は福島の出身なので仙台は近い。が真相は分からない。今度聞いてみたいと思っている。
・もう一つ印象的だったのは当時初めて出たKORG X911というユニット式のギターシンセサイザーの販売デモンストレーション演奏だった。演奏後、プレイしたギタリストにマイクを向けられ、どうでした?と聞かれたので、「イヤー、シンセサイザーみたいです」と正直に答えた。そのときKORG X911が印字されたピックをもらったが、大人になってから、同じデモを見たことがあるという方にヤフオクで売ってしまった。
・ギター以外の可能性も知りたくなり、アリアプロIIのジャズベースを月賦で買う。仙台の河合楽器で買ったが、学生服で月賦の支払いに来るのでかわいがられた(洒落ではなく)。ベーシストで憧れたのはあくまでイメージだけであるがテニスのヘアバンドを巻いたジャコパストリアスだった。
・中三の時受験のため三カ月ギターを止める。パープルのバーンを完コピした直後。高校合格後、親友に電話をかけ、バーンのソロを弾いて聞かせる。

高校時代
・高校に入った直後私服の高校だったので、ジャコパスの真似をしてテニスのヘアバンドを巻いて学校に行っていた。
・高校一年になるとすぐバンドを始める。様々なバンドメンバーに会うが皆コピーをやりたがるため、退屈に感じ、オリジナルを作り始める。今でいうプログレメタルである。
・長髪にする。高校三年まで長髪だった。
・高校では洋楽が好きな友人は一人しかおらず、中学より不作だった。この友人はベースを弾くのでバンドを組みたかったがかたくなに断られた。彼に使わなくなったオートワウを売りつける。意外なことにオートワウはベースに合うと彼は気に入る。
・Rushに出会い、集め始める。風邪で熱があるときでも不思議なことに’Hemisphere’など安心して聴けた。2112はカッコいいが、Moving Picturesのキャッチーさのほうが好みだった。
・ロックショック(Rock Shock)というバンドを組み、ビジュアルの良いボーカル兼ベースに恵まれ、化粧にメタルギアで身を包み仙台で人気が出るが、たまたま一曲だけ本城末沙子の曲を演奏したところ、オリジナル曲の完成度が高校生にしては高すぎたため、他のすべての曲が本城末沙子のコピー曲だと思われてしまい、不本意な評価を受ける、ここから二度と人のコピー曲は演奏しないと誓い、その姿勢は現在も貫いている。ただし現在は頼まれると人のバックで弾くこともある。
・Rock Shockはメンバーの受験のため空中分解する。高校最後に組んだバンドのEzekielで大学入学直後NHK仙台のラジオ番組に出演し30分演奏する。この際アンプはあまり歪ませないでねと言われるが歪ませた音で演奏する。
・高校時代の前半はNWOHMブームで一通り聞いたが、後半から次第にストーンズやT-REX、ハノイロックスのような酔っ払いロックンローラーが好きになりそこから日本で言うオールディーズに入っていくようになる。
・高校最後ではこのR&Bやソウル(当時オールディーズでくくられていたが)のライフスタイルが好きになり、長髪を止めてストーンズのような耳を隠した聖子ちゃんヘアのような中途半端な長さになる。
・この時期、ライバルの地元ヘビメタ・HRバンドの演奏はマイノリティで、多くの地元バンドは和製フュージョンをやっていて客の入りもそちらが良かった。彼らの多くは大学生軽音部員だったようだが、高校で楽器を弾く友人たちも高中正義やカシオペアのような和製フュージョンにかぶれていた。これが原因でフュージョンは嫌いになった。TVからもよくフュージョンが流れていた。
・しかし聞かないのも悔しいので友人が勧めてくれた日野皓正のスティーブガットが参加している「デイドリーム」に衝撃を受ける。特に「スティルビバップ」はこれ以上カッコいい曲は無いのではないかと思うほどである。現在もマイ・カッコいい曲20選に入る。しかし当時こいういう16ビートで刻むのがビバップという音楽ジャンルの曲だと思ったがビバップではなかった。また大人は人を騙すことがあるのである。
・こっそり裏の道を行くように、当時ギター雑誌で話題だったビジュアルがオッサンのアルディメオラの「スペイン高速悪魔との死闘」の譜面を見つけてコピーしてみると指がむずくできなかったが、フレーズはリッチーブラックモアと同様なのを知り、完コピを目指す。同時にゲイリームーアやジョンサイクスの弾丸速弾きをマスターし、高校卒業時にはディメオラのフレージングを完コピするようになる。
・高校卒業前親友が東京に出てプロデューサーの専門学校に入るというので、自分も音楽関係の専門学校に入りたかったが、親に反対されたため、大学に落ちれば親も諦めるだろうと、わざと入らなさそうな大学を受けようと思ったが、当時哲学と宗教にも関心を持っており調べると興味が持てそうなところがあったのでそこを受験する。
・幼稚園直系の東北学院大学の史学科を受けてみるが、面接で英語科なら受かるのに、のようなことを言われオファーを断ると落ちる。山形大学人文学部哲学科を受けると合格する。
・当時自分の高校は荒れており、自転車泥棒や万引き、街中でのナンパや飲酒が流行っていた。髪を切った後自転車泥棒の疑いをかけられたことがあり、教師に呼ばれた際、「キリストに誓ってそんなことはありません」と答えておいたが意味が分からないようだった(ちなみに私はクリスチャンではないが、聖書や神話をコンスタントに読み続けていた)。犯人は体型の似ている彼じゃないですか、と教師に言った後で、その彼に聞いてみるとまさに彼だった。自転車は彼が乗り捨てた場所で発見された。
・この頃は校内に暴力教師がおり、彼の授業では「宿題を忘れました」と言って1時間立っていた。おかげで足腰が強くなった。

・この暴力教師は、宿題を忘れたり答えられない女子の耳を教科書の背の角で殴るという今思えば狂気の沙汰の体罰を連発していた。教師ではなくサドであった。後彼は他行へ移り、あまりの酷さに父兄が告発したらしく戒告になったらしい。
・そういう高校(ところが驚いたことにそこは進学校で有名だったのである!!)だったので、大学合格後「学校に来て合格体験談や受験の準備の仕方を話してほしい」と何度か教師から電話があったが、ギター弾いていただけなので、と言って断った。荒れていたのは当時の時代全体がそうだったので仕方ない面はある。
・高校時代は失敗だったと思う反面、好きなようにできて良かったという面もある。

・こうしたことがきっかけで社会正義や権威とは何なのか尾崎豊のような考えが芽生えるようになる。

・当時オートバイにも興味があり、16歳ですぐ原付と中型二輪を取った。高校では通学はできないが二輪禁止ではなかった。その雰囲気も悪くはなかった。荒れるのとバーターだろうとは思う。
・草刈正雄の主演する角川映画「汚れた英雄」の撮影が地元であるので、観に行くと丁度エキストラの席で主演女優の木の実ナナのすぐ斜め後ろに座れた。カメラを何度もこちらに向けていたので、足だけは映っているいるはずだが確認できていない。
・この時サービス精神を生かして、同じ角川の小説「金田一耕助の冒険」のTシャツを着て行ったがそれが原因でカットされているのかもしれない。このTシャツはよく高校にも着ていった。
・残念ながらオートバイの趣味は高2の夏にトラックの陰から無謀に右折した車に轢かれ、左足の筋を断裂し、しばらく終了となる。バイトで買ったGSX400Eも廃車となる。夏はギブスと杖の生活を送る。幸い夏休みだったのだがあまりその様子を見た者はいない。それ以後左足のすね部分には神経が通ってなくぶつけても痛みを感じない。

大学時代
・東京の専門学校に出たかったので入学後退学しようか悩む。同じ悩みを持っている友人がいて彼は水産大学に入って海に出たいと言っていたのでよく相談しあう。彼は勇気を出して退学するが、自分は仙台で西塚三四郎氏と高校時代通ったスタジオのマスターに引き合わされ、一緒にやったらどうかということになり思いとどまる。

・当時青森から出て来て酒場で歌っていた西塚三四郎氏と、マスターの推薦する優れた感性のベーシストとパワフルなドラムとの四人でバンドを組み、ライブハウス等での出演予定を組む。このバンドはここで演奏すればメジャーデビューできると言われたライブハウスに出演することになっていたが、メンバーの家族に不幸があり、活動停止し空中分解する。4人でプロになるという意気込みが強すぎたため、これを機会にバンド活動を止める。当時宅録というものが出始め一人でレコーディングができることが分かりバンドはもうやらないと決心する。

・今であれば3人でやってもよかったし、しばらく代役を入れれば良かったとも思うが、それは大人になってずるくなったからそう思うのである。青年たちは純粋だったのである。この事件は「魔坂」と呼んでいる。あとちょっとで山の頂点を見ることができるようになった時に襲いかかる運命のいたずらである。


・西塚三四郎氏は後に1991年にテイチクレコードより『Straight Heart』でデビューしている。
・西塚三四郎氏は年上で、常にポジティブで頼れる兄貴分であった。山形から通う自分を練習後夜中替えるのは大変だろうということでよく彼のアパートに泊めてくれた。彼はギターで独創的な作曲をする人で、ギターから曲が生まれていく彼の姿が不思議であった。 自分は鼻歌や湧いてくるイメージが先に来て楽器で音を確認する作曲をするので、 なおさらギターでしか出せないアレンジを考え付く彼が不思議であった。
・この時期仙台でビックリするほど早い爆速ギタリストとして一部で話題になる。しかしギターより段々関心がアレンジや電子機器へと向かうようになる。
・バイトの金で宅録機材をそろえ始める。最初に買ったのはとりあえず録音できないといけないということと自分はドラム以外は既にマルチプレイヤーなので、ARIAの4トラックカセットテープレコーダー Aria Pro II Studio Track III R504 を買う。大学では軽音部に入ったので、音楽仲間は多く機材を貸してくれる親切な親友もできた。よく借りたのがKORGのPoly-800でその後この親友からもらうか買ったかして、愛機になった。
・その後、 最終的に 揃った機材はKORG Poly-800, YAMAHA TX-81Z, YAMAHA QX21. Roland TR505. Aria Pro II Studio Track III R504. CASIO SK-1, Yamaha SPX90となった。
・当時の自宅の宅録スタジオの様子を写した写真は英語版Wikipedia ‘Home Recording‘(https://en.wikipedia.org/wiki/Home_recording)の記事に掲載されている。宅録文化は全体に当時の産業音楽界から評価されなかったため、こうした写真があまりないので貴重である。日焼けして黒いのはソウルミュージックへのリスペクトで頭がクルクルなのは地である。
・大学に入り宅録を始めると、ハードロック・ヘビメタから遠ざかり、完全にソウル・R&Bに没入する。鈴木啓志著の『R&B、ソウルの世界 ミュージック・マガジン増刊』に従い、当時仙台にできたばかりのタワーレコードでこの分野を買い集める。
・その中でオーティス・レディングやサム・クックといった心で響かせるシンガー、フォートップスのようなコーラスワーク、オハイオ・プレイヤーズやスライ&ザ・ファミリー・ストーンの強烈なファンクのリズムに惹かれるようになる。特にスライ&ザ・ファミリー・ストーンの『スタンド!』は心の中で再現できるほど聴く。
・一方で寮の隣の部屋に住んでいた学生がプログレのファンだったので、キングクリムゾンやEL&Pの話はよくするが、彼はカンサスやムーディーブルース系だったので、あまり感性が合わなかった。ただしプログレの世界は広いなと感じた。大学生協で当時買えたキング・クリムゾンのアルバムをすべて注文して揃えた。ウィドリアンブリュー期は雑誌では酷評されていたが意外によく馴染んだ。
・大学時代にはアルバム三枚をカセットテープ形式で制作した。Sugai Hideaki I、II、IIIである。
・Iは4TRカセットと借りてきたPoly-800、それに自分のギターとベースしかなかったので生バンドに近いフレッシュさと少ない音源で聴かせる工夫がしてあって、現在でもかなりの傑作だと思っている。ドラムは Poly-800 のプリセットを指弾きしだと思う。
・Iに収録されている’Have You Ever Loved A Woman‘はギタープレイでも最高傑作の一つと考えている。音数は少ないが、ピンクフロイドのザ・ウォール収録のComfortably Numbを超えるべく考えたソロである。そしてアレンジ自体はプリンスのパープルレインを超えるべく考えられた。この曲は現在Youtube(https://youtu.be/905lkKloO1s)で聴くことができる。
・I、II、IIIのいずれもカセットテープで10本程度のリリースに留まり、友人らに配布している。大量に作らなかった理由については当時持っていたWカセットが量産できる堅牢なデッキタイプではなかったことと、カセットによる宅録文化はまだ浸透しておらず、自主製作を引き受ける会社はカセット形式ではなく、LPの形式にして数十万円を要求するためであった。
・これらの曲目でコンサートをしたことは無い。
・IIは楽器が増えてきた時期の実験作で、IIIは完成度が高く愛着がある曲が多い。

・IIはコーラスワークも挑戦し4TRしかない中で一人で工夫して『涙の仙山線』(https://www.youtube.com/watch?v=xjQX6Emp_Go)のようないかにもオールディーズでソウルフルな曲も作った。自分の声が好きでなかったのだが、ピッチを1/4音程度ピッチを下げて録音して戻すと明るい声になるなど、実験を続けた。この曲には当時の貴重な仙山線の車内のアナウンスの音を録音している。

・IIではYoutubeに乗せていないが、ラップも導入している。黒人音楽では当時MCハマーやビースティーボーイズなど出る前だが、Run DMCは既にいた。まだ実験的な段階ではあったが、ラップの曲は存在していた。

・IIIの収録曲『三日遅れのバレンタイン』(https://youtu.be/5QWpxUOMrVg)は完成形であり、満足してこの宅録活動を終えた。


・活動を終えた原因が、後にウィーアーザワールド・ショックと呼ばれるものでプロの音楽制作が一曲数億円をかけるほど大規模になり、とても宅録で工夫することで何とかなるレベルではない風潮になってしまったため。

・当時坂本龍一が持っていた宅録作品を紹介する番組があったが、山形では番組が入らないため、この番組について知らなく、応募しなかった。
・山形は思索には良い場所だが、情報はなかった。大学最終年度、哲学科美学専攻だったので、美学の卒論を着想しなければならないが、思い浮かんだのはどちらかと言えば、現代のチョムスキー系の言語学の内容であった。作品の美はどうやって見る者に美として認識されるかというものだったと思う。現在この論文は手元にない。この学士論文は成績が良くなかった。
・大学1年時に西塚三四郎氏の「三ちゃんバンド」(正式バンド名はレイラを名乗っていたと思う)時代山形から頻繁に仙台に通ったが、不便に思った親が中型二輪にまた乗って良いという許可をくれたので、ホンダのGB250を買った。
・これで日本をトータルで二周半ほどした。当時四国や北海道はフェリーにGBを積んでいった。沖縄にはオートバイを持ち込まず、オートバイは大阪のユースホステルに置いてもらって、フェリーで人間だけで行った。
・日本をぐるぐるまわるのも1年半ほどで飽きて来て、それほどどこに行っても違いはないなと思い、止めた。
・当時一番印象に残った風景は九州の志賀島にかかる橋で、観たことのない群青色の海の上を渡り、道路わきがブーゲンビリアの鮮烈な赤紫の壁に囲まれた楽園の風景だった。
・鹿児島では噴火に会い、沖縄の竹富島では水牛のタクシーに乗り、北海道ではヒグマを撃とうとする警官たちに会い、なぜか離婚したばかりの男性の家に泊められたり今思うと当時の日本はどこも同じではなかったのかもしれない。
・公共の場の建築物、特になぜかトイレが気になった。バイク旅行していたからだろう。それを卒論テーマにしようと公共の場の建築関係の本を読みまくるが、あまりピンとくるテーマが見つからなかった。当時日本の自治体は非常に潤っていて、おもしろい形の公衆トイレや警察署を建てたりしていたが、お金で作ったという感じであり、哲学が感じられなかった。例えば今でいうユニバーサルデザインのようなものはまだ無かった。
・ウィーアーザワールド・ショックもあるが、アメリカに行ってリアルな黒人の生活に触れたいと思うのと、卒論を考えるのが面白くなってしまった。
・趣味として当時ファミコンが出て来て、ドラクエ1,2,3とやったと思うが、時間がなく、それ以外はやらなかった。しかしゲームは将棋や野球盤やボードゲームも含めて好きである。
・別の趣味として小学校から膨大な量の漫画を読んだが、当時大学生が漫画を読むのはおかしな風潮であり、電車通学時に一緒に乗ってくる同じ人文学部の女性には訝しがられた。女子大生も『ガラスの仮面』くらいは読んでいたのではないかと思うが。
・当時好きだったのはアメリカのリアルな様子を背景に使う『B.B,』とファンタジーの『クリスタルドラゴン』だった。特に『クリスタルドラゴン』は日本のプログレバンド、ノヴェラを聞きながら読むと独特の神話の世界に入れるようでお気に入りだった。Wikipediaの写真ではクリスタルドラゴンの積み上げた単行本がスピーカー台として使われているのが見える。

研究者・教育者時代
・ルイジアナへの英語留学を得て、カリフォルニア州立大学フレスノ港で言語学の修士号(M.A)を、ハワイ大学マノア校で言語学博士'(PhD)を取得する。博士論文のテーマはニューラルネットワークでタイ語の文字をタイ語の発音通りに習得するコンピューターモデルで、これは学士論文のテーマの延長であった。
・その後言語教育者・研究者となる。シンガポール国立大学、日本の国立国語研究所、政策研究院大学院大学、香港理工大学に勤める。

・フレスノ時代にPCゲームSierra On-Lineの『King’s Quest V: Absence Makes the Heart Go Yonder』のFM Towns版でナレーションと魔王 Mordack 役の日本語吹替の声優をする。(https://sierra.fandom.com/wiki/King%27s_Quest_V:_Absence_Makes_the_Heart_Go_Yonder#Voice_Cast)。

・ハワイ時代に先輩の紹介で日系人向けラジオのパーソナリティを1年ほどする。

・この間、ハワイ時代に機材としてはAppleにつなげる外部音源とシーケンスソフトでできた初期DTM機材を、香港時代にはSONAR7などを入手するが、制作は二曲に留まる。ハワイ時代はHawai’ian Night(https://www.youtube.com/watch?v=TKjwrAMtYvg)、香港理工大学時代は、『死なないで―巡音ルカ』(https://www.youtube.com/watch?v=Trt1WWxHlLc)である。Hawai’ian Nightでは地獄の鬼速弾きも聞けるが、当時の感覚では8割くらいの気合である。
・ハワイ時代には二胡の一種で音程の高い高胡をタイで手に入れて独学でマスターし、何度かパブリックで演奏する。高胡はしかし音が高いので、キーキーうるさいと怒られることも多かった。高胡の演奏はHawai’ian Night(https://www.youtube.com/watch?v=TKjwrAMtYvg)で聴ける。


・香港時代はパブリックで演奏をする機会がなかったが、英語で豊富な教則本が出版されていたので、理論研究を行い、そこから従来の指癖的奏法を改め、弾いたことのないリックやスケールの吸収に努める。
・香港時代知り合いにジャズ好きが多く、ジャズの名作のほとんどをマラソンで聴く。青年期に晩年のマイルスやクインシー・ジョーンズ、ハービーハンコックのようなフュージョンをリアルで体験しているので、ジャズはそういう物と思っていたが、それらとは全然異なるモダンジャズやスイングの名曲を聞いて少年時代の懐かしい映画館を思い出した。
・新しく聴いたジャズ(と言っても古いものなのだが)のお気に入りはエリック・ドルフィーやオーネット・コールマンのような実験的なジャズやジョンゾーンのような調性を破壊するものだった。プログレ魂と共通していた。

・作曲者的に面白いと思うのはミンガスとモンクである。特にモンクの遊んでいるようなピアノと変な和音には心惹かれる。

・ジャズ・ギタリストとしてはジョー・パスを尊敬しているが、あれだけ作り込むこととその曲自体の価値とをバーターにかけるとそれほど作りこむことが必要がある曲なのか分からなくなる。しかしエラ・フィッツジェラルドと二人でやっているものなどはバランスが取れていてギター1本で豊かなオーケストラのようにも聞こえて感動する。

・ジャズギタリストとしてもう一人面白いと思うのがタル・ファーロウで、ジョン・コルトレーンのサックスをギターでなぞっていたというだけあって、ギターらしからぬフレーズが面白く、雰囲気がアランホールズワースと似ている。結局モダンジャズにギターは要らないという結論にも結び付いて、昨今のジャズギターブームに頼っているギター雑誌出版界に怒られそうである。ギターのフレーズが聞こえた瞬間、ロックかフュージョンに聞こえてしまうのは残念である。


・香港時代に日本に帰る度に自殺者が年間2万人も出ていることに驚きを覚え『死なないで―巡音ルカ』(https://www.youtube.com/watch?v=Trt1WWxHlLc)を制作する。動画素材は香港で集めたが発表は日本に戻ってからである。この時から作る曲は社会的に意義のあるものにしようと決意する。元々ラブソングを空想で作るのはリアリティがなく、聞き手を欺く行為だと感じていた。同様の理由で恋愛系の小説や漫画も古典以外ほとんど読まない。
・必然聴く音楽もそういう物になり、演奏者の背景が気になるようになった。音楽ジャンルよりも制作者のパーソナリティや社会にどう関与しているかで聴くようになったのは香港時代からである。
・特にジャズにはマーチン・ルーサーキングのようなプロテストの精神が宿っているいる物が多く、言葉(歌詞)が無くてもその精神が通じるのが良い。

音楽に復帰
・2012年音楽演奏に復帰する。IOミュージックの熊さんに師事し現代的な作曲法を習い直す。
・The Standoffish Roosters名義で’Cry for Tibet’ (the insane rooster version)(https://www.youtube.com/watch?v=RXsUCNXUE5I)を発表する。裏コードと代理コードだけでアレンジしたサムクックのA Change is Gonna Come – Sam Cooke Coverhttps://www.youtube.com/watch?v=ehwZ3yjOCOk)もある。
・東京都立川市の立川いったい音楽まつりなどでアコースティックギターでジャズを演奏するがコード理論等のあくまで実践的検証のつもりであった。

徳島県移住
・2017年ころからアレンジと所有する機材の極限を極めるためJ-POPをジャズにアレンジして、徳島ニューオーリンズジャズクラブとして載せ始めた。『恋するフォーチュンクッキーをジャズにしてみた』(https://www.youtube.com/watch?v=SYbULRJNHIk)、「【森山直太朗】「さくら」をジャズにしてみた」(https://www.youtube.com/watch?v=4oxxdUBJyf0)などである。
・ジャズアレンジも裏コードや代理コードセカンダリードミナントなどの使用に満足して終了する。

ミニマリズムと環境音楽
・シンガポールのNational Gallery Singaporeで行われていたMinimalism:Space. Light. Object.展に衝撃を受けて、アレンジの極限の別の方向としてミニマルなAmbientを目指すことにする。
・このようなミニマルな試みは大学時代の電子機材がPoly-800しかない時代に何度も挑戦した。その当時Poly-800のオーバーダブだけで作った『古墳』を全く同じメロディーとアレンジで現代の機器で蘇らせて挿入曲として用い、平成30年度徳島県美馬市観光PR動画コンテスト優秀賞を受賞する。「古墳(Tumulus)」はBandocamp(https://sugaihideaki.bandcamp.com/track/tumulus-kofun)で聴くことができる。
・2019年『四季の為の音楽』(https://www.amazon.co.jp/music/player/albums/B07WTR3GF8)を発表。本作を用いたインスタレーションをシンガポールのデジタルアーティストNg Pei Ningと2020年1月15日~26日徳島県立近代美術館「チャレンジとくしま2020」で行った。

・2022年『生命軽軽的回帰』(https://www.amazon.co.jp/music/player/albums/B0BRFLZJL4)を発表。このアルバムは無料でもらえるAbleton Live10 Liteだけで制作した珍しいものである。収録曲の「自然軽軽的回帰 for TRT」は耳鳴りに悩む患者に用いられるTRT療法(Tinnitus Retraining Therapy)を論文研究を元に製作したもので、意図的に耳に意識される気になる音が挿入されていて、通常バージョンと聞き比べるとその違いが分かる。ミニマルやAmbient musicにはこのような役割・使命もあると感じている。

コロナ期
・コロナ期には配信サイトのPOCOCHAでライブ演奏を中心とした放送を行っていた。この際使用した機器が、鍵盤のない四角い箱の物に限定したセットで、ノイズを集めたCDを流すDJプレイヤー、KORGのVolca Bass、KORGのサンプラーKP-3、任天堂の3DS(中にKORGのM01-Dが入っている)を使用していた。
・弦や鍵盤のない四角い音の出る装置を「演奏」していたのは、Covid-19でライブハウスやホールで思うように楽器を弾けない社会状況を具象化するため、わざと不自由な形で行っていたが、やり始めると想定以上に面白かった。
・この時期ミニマルな曲の研究のほかに、ノイズミュージックやアンビエントの中でもドローン音楽の研究をしていた。当時の発表作数曲はBandcampの’The Tragedy of a Dracula under Lock-Down who Can’t Suck Blood‘(https://sugaihideaki.bandcamp.com/track/the-tragedy-of-a-dracula-under-lock-down-who-cant-suck-blood)で聴ける。なぜドラキュラになったかというと、ドラキュラの日中で歩くことができない様子が、Covid-19で外を出歩くことのできない先進国市民の哀れさと重なったため。
・この方面で続けたい意欲もあるので、いずれパレスチナとウクライナに平和が戻ったら、このスタイルでパフォーマンスを継続したいと考えている。

阿波ポップス
・徳島県上板町にある技の館で行われている地方創生塾「熱中小学校」に参加していた際、演奏活動がしたいという仲間に誘われ「つづらがき」というバンドを結成。その後しばらくコロナ禍でも技の館で定期演奏をした。
・技の館の支援を受けて、他地元ミュージシャンと『阿波ポップス Vol.1』CDを制作。
・阿波ポップス創生委員会座長(後に阿波ポップス創生PROJECT)として徳島県文化の森で「阿波ポップス大祭」を2021年、2022年と開催。2023年は東京都の高円寺ALONEで有志による演奏を行う。
・2024年より阿波ポップス創生PROJECTを引退し若手の運営委員に運営権を無償で譲る。

現在
・ガザでの虐殺及びウクライナの紛争が終わらないことから、2024年より演奏スタイルを戻し、プログレ・メタルの曲を発表し続けている。その際はカラオケをバックにエレキギターを鬼弾きしている。初期キングクリムゾンを彷彿とさせる「Tears Flow into River Ili」’https://www.amazon.co.jp/music/player/albums/B0DKNVJ1QK‘や、エキゾチックで勇壮な舞踏集団を描いた「Crescent Moon Partisans」’https://www.amazon.co.jp/music/player/albums/B0F996MT1K‘などである。
・徳島県ではエレキギターで演奏できない会場で演奏することもあり、その場合はアコースティックギターで「もしも世界が」という曲を中心にYoutubeで公開していた「世相ブルース」(https://www.youtube.com/@%E4%B8%96%E7%9B%B8%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9)というYoutube Channelで用いていたオリジナルのブルース曲を替え歌にして歌っている。

・坂本龍一氏が生前読んでいた蔵書を公開している「坂本図書」を訪問した。坂本氏が読んでいた本の多くが自分が大学の哲学科だったころ読んだり聞いたり表紙だけ見たりしたものだったのが嬉しくなる。社会問題とアート、あるいは音楽を結び付けるアーティストは日本人には少なく、坂本氏の様々な社会問題を解決しようとした姿勢に敬服している。氏の所蔵に哲学者のアドルノという音楽やアート作品は権力を批判し乗り越えることを是とする哲学者がいた。坂本氏とは縁のないという縁があったが、つながった予感がしたので、メルマガ「菅井英明の音楽雑感」でアドルノまでたどり着けるよう、美学の話を展開している。

グッズ(マーチ)
・通常アーティストのグッズはリストバンドやTシャツだが、自分の場合、Kindleで発行している本である。『Q&Aでよくわかる!! 阿波倭邪馬台国論入門』(https://amzn.to/3ZwLX9H)や『パブリック・スピーキングのためのスピーチ原稿作成法 レベル1教材 -構成、レトリック、思考法を習得し賢慮を養う法-』(https://amzn.to/4ka80eL)が人気がある。毎年1冊程度刊行しているが、音楽家と同一人物と気づかれないことが多いのを嘆いている。「グッズ」の大きいテーマとして文明論をベースにしており、音楽と同様により良い人間社会を模索するものを刊行している。