美学の世界では今一つ制作者に対する考察が弱いです。と言うより伝統的に無いです、と言っても良いかもしれません。
これは意外です。なぜなら現代アートにしてもポピュラー音楽にしても誰がどうやって制作したかの情報がネットで見れますし、著名な方であれば雑誌に記事として出てきます。熱心なファンなら製作者の生年月日や家族構成、影響を受けた先人や先輩の名前、好きな食べ物まで!知っていることでしょう。
実際、作品よりも制作者の名前の方が有名なアート作品や音楽が多数あります。坂本龍一氏と言えばみんな知っていますが、彼の音楽となると途端にうーん、YMO?ラストエンペラー?それ以外思い浮かばないな─という人が多いと思います。
ちなみに私は『未来派野郎』という80年代中ごろに出たアルバムが大好きで、一種私の音楽制作の目標にもなっています。
ということで今は制作者の方が作品より有名!!だったりしますが、少し前はこうではなかったのです。
例えばフェルメールです。フェルメールの絵は何点かパッと思い浮かぶ方も多いでしょう。美術史的に彼の『真珠の耳飾りの少女』の絵を紹介しない教科書などないでしょう。しかしフェルメールがどんな人だったかは謎の時代が長くありました。最近ではかなり発掘され明らかになっていますが。
これは特に西洋美術では仕方がないのです。少し前は画商を通じて絵は販売されていました。画商の知り合いがいなければ絵は売れませんでした!一端画商の手に渡ると、その絵はどこに運ばれていくか、製作者のアトリエからはるかに離れた異国の貴族宅に持ち込まれるのも普通です。
そうなると制作者の生涯についてなどまったく知りようがない人たちがそれを手にすることになります。画商が制作者はこんなこんな人でと説明でもつけてくれればいいですが、大体画家は貧乏でそんな貧乏な人の人生を聞いても絵を買うお金持ちには何の意味もないことでしょう。
ダヴィンチの様にまれに自分で自分のことや美術についての意見をせっせと書き残す人もいないわけではありませんが、多くの制作者は製作が忙しく、そんな自分の情報を書き残すことなどなかったのです。
ギリギリで宮廷に雇われているような画家や音楽家はある程度の生涯の様子が残されていますが、それでも貴族は自分の生活に忙しいのであって、いい絵さえ描いてくれればもうそれでいいのです。
ということで、製作者については美学はテーマとしては考えていないというよりは、考えるほど情報がなかった、ということになるでしょう。
小林秀雄は、昭和後半に高校や大学受験をした方にとっては苦手科目かもしれませんが、『私の人生観』という本で、彼の美学に対する考えを披露していて、美学の考察としては珍しく製作者に焦点を当てています。
それを簡単にまとめると制作者は対象(花でも花瓶でも)を「観る」ことで視野と意識が拡大し、それを宮本武蔵!のような実践主義に基づき物の形にする、というものです。
彼は「観る」と「見る」とを分けていて、製作者の意識は観ることで自然のありのままの姿から拡大していくので、その作品を見る人も観る意識を持って製作者の拡大した意識に近づくことが美術作品に接する方法だとしています。
制作者はそのように深く観ることができるので、作品は自然の模倣ではなく、それを観る者に宮本武蔵のような!共通の認識を与えるべきものとしています。
私は宮本武蔵の例はあまりいい例とは思わなかったのでそれはさておき、名画や良い音楽を聴いたとき、異なる個人が共通した良い気持ちを得るのはなぜだろうというのは美学の大きなテーマです。自然を模倣したのではない、それを超越する何かに深みのある価値や畏敬の念を感じる。そういう作品を作りたいと巨匠たちは意識してか、無意識的にか思っていたことでしょう。
カントもこの鑑賞者が共通して得る感覚について考察しています。
小林はこの自然を超える気持ちは物を作れば誰でも感じる、たどり着ける境地だと考えていて、理論のための理論になっているような哲学や美学、文学評論を否定しています。
まずは物を作ってみろ。
この本は昭和23年の講演を書き起こしたかなり古いものでここで言われていることは当時は奇妙な事だったかもしれません。物を作るのは当たり前の時代でした。地方では生活に必要なもの、ほうきやざるなどは手製で何度も直して使ったもので、物を作るよりそれについて論じる方が高尚だと思われていたに違いありません。
しかし現代ではアートセラピーというものが比較的普通になっていて、障害のある方や心の健康を損ねている方たちが、物を作ったり、鑑賞することで意識や感覚、身体的能力までもが拡張されることは普通に認識されてます。
他の人の意識と自分がつながることができ、その分自分の意識が拡張していくという意味で、作品には物凄いパワーがあるのかもしれません。特に自然を拡張した視点で観る製作者とつながれれば、鑑賞者にもその拡張した視点が自然と芽生えるのかもしれません。
このように自分の意識は自分の意識だけでできているのではないという考えはサルトルやハイデッガーのいう「相互主観性」というものに通じていきます。サルトルハイデッガーはまた別の機会に取り上げます。
サルトルの本は坂本図書にも置いてありました。
情報不足のため制作者について考えることが西洋美学では不可能でしたが、他者なしで自分の存在は無いという現代的な視点から行くと、製作者がどんな人となりであったのかもっと考慮されても良いのかもしれませんね。
とは言っても製作者の名前は知っていても作品は知らないという今の逆転した風潮もどうかと思いますが・・・
※自分のブログはやっぱり自由度が高くていろいろできていいですね!
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『生命軽軽的転回』生命の豊かさを賛美した、無償で手に入るAbleton Live Liteだけで作った珍しい作品
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