神武天皇は実在した―地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第四回 徳島の沿岸を放浪した神武天皇

鳴門市の数か所で本拠地を移した神武

藍住町(筑紫のヒムカ)でアヒラヒメをお嫁さんにもらった神武は隣接する今の鳴門市の大麻町というところを中心に都を移していきます。

大麻町には古墳時代最初期の前方後円墳と考えられる萩原古墳群など実に多くの古墳が見つかるところで、古墳のメッカとでもいえるところです。古墳マニアの皆さんもしまだ来たことがないならぜひ来てみてください。

特に萩原古墳群と呼ばれるところは近畿の古墳の先駆けとなったところです。弥生時代末期の建造です。近畿の古墳の先駆けなのに、近畿の影響を後に受けましたとは言えないはずです。考古学会も早く目を覚ましてほしいものです。

萩原古墳群

これらの古墳群は緩やかな丘陵の斜面にあり、足元には船が航行する川が流れ(海もまだ深く陸地に入り込んでいました)航行する船の目印になっていたようです。

神武がヒムカから次に移ったのは、筑紫ですが、当時筑紫は阿波の海岸沿い全般を指す地名だったようです。これはイザナギが黄泉の国を訪れた後、禊をしたのが、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で、これは徳島市より少し南にある阿南市の橘というところと、阿波論研究者は比定していていわば阿波倭論者の間では常識となっています。

ところで神武が藍住町からいきなり南の阿南市に遷都するのは難しいと思います。私も神武は阿南に行ったのかなと多少は思うのですが、当時の地形を考えると難しそうです。

藍住町と阿南市の間には今の徳島市や小松島市がありますが、山がちな小松島市はさておき、徳島市はほとんど海の下でした。徳島市の県立図書館があるところはすでに多少標高の高い丘陵地ですが、その周辺に「浦」と名前のつく地名が多数残っています。海水はこの辺まで上がっていた証拠です。

徳島の80%は山ですが、当時は海がかなり内陸部に入って来ていて、さらに吉野川をはじめとする大河が頻繁に氾濫するので、人々は皆、水害を恐れて丘陵地に住んでいました。

ここは試験に出る大事なポイントです。倭の人々は山の人なのです。だだっ広い平城京や平安京を都と思う現代人は分からないかもしれませんが、徳島の人が奈良や京都に行って思うのは、ほー、こっちにも婆ちゃんの集落に似ている山があるなあーということなのです(笑)

藍住から川を超えて山を越えて阿南にたどり着くのはかなり疲弊するので、宮を造営するのは難しいのではないかと思います。それよりは藍住町から地続きというか完全に目の前の鳴門市大麻町に引っ越すのが現実的です。

さて、話がいきなり阿波倭論の核心に入ってしまいましたが、話をさきほどの筑紫に戻すと「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」とだんだん範囲が大きいところから小さいところになっていきますので、おそらく鳴門市も昔は筑紫の一部だったのでしょう。

鳴門市大麻町を中心に転々とする神武

次に彼は豊国の宇沙へ、そして、筑紫の岡田へ移ります。宇沙という地名は徳島にありませんが、ここで古事記編者はぼろを出して、「豊国の」などと律令以降の地名を挿入してしまっています。神武の頃に「豊国」がありましたか(笑)。古事記はできる限り忠実に読みますが、ときどき史実ではない700年頃の古事記「解釈」が挿入されています。

次の岡田はこれまた大麻町と隣接する、藍住町からは買い物自転車で行ける板野町の「岡上神社」(おかうえじんじゃ)の足元の板野町大寺字岡山路のあたりに移ったと考えます。この神社は延喜式内社です。豊受姫命を主宰神としています。由緒正しい神社で源義経も参詣しています。義経は軍神のところを参詣していますので、今は食べ物の神様である 豊受姫命 を主宰神としていますが、元は神武だったのかもしれません。

ここの近くはまた古墳のメッカで黒谷川郡頭遺跡(くろだにがわこうずいせき)があります。阿南の若杉山で採れた辰砂(水銀朱が含まれる石)を精製して朱を作っていました。「その山に丹(朱のこと)あり」と魏志倭人伝に書かれているので、邪馬台国が阿波にあったのはゆるぎない事実です。

このすぐ近く、板野町大寺字亀山に「阿王塚古墳」と呼ばれる古墳がありました。現在「御聖天山」(ラノベのような凄い名前ですね)と呼ばれ、亀山神社となっています。出土遺物もあって、平縁神獣鏡2面、鉄剣5口、鉄鏃が出たのですが、宮内庁に持っていかれてしまいました。

出てきた出土品からして、まさに「我武神」(漫画のキングダムですか!?)という感じの方の古墳です。私はこれが神武天皇の墓ではないかと思うのですが、「阿王」が誰なのかについてはサルタヒコだとか忌部氏の誰かだとか、いろいろ考えられるところです。サルタヒコは芸能、忌部氏は宮廷儀礼のほか養蚕や縫製に関わっていたので、「我武神」なのは神武しかいないのではないかと考えています。

しかし阿南市にも岡という地名があり、そこも岡山と呼ばれる円墳があります。埋蔵物が何なのか気になるところです。

そこから阿岐のタケリというところに移ります。現代古事記解釈者は広島県の安芸郡だろうとしています。しかしタケリが見つかりません。そもそも全国にタケリという地名は一つも残ってないようです。

ところが阿波論だと、 阿岐と書かれているだけで、これは阿波のどこかだな、と思うわけです。 阿岐が阿波岐の略だとするとまたしても阿南のような気もします。 しかし「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」を厳密に読むと、「徳島沿岸の藍住町の橘の小門の阿波岐原」となってしまい、ひょっとして橘は藍住町にあるのかとも思いますが、阿波倭論の大先生たちに怒られてしまいそうですので、悩むところです。

このように神武の本拠地は阿南か鳴門か悩むところですが、もう少し考えるとやはり藍住町に隣接する大麻町と板野町なのではないかと確信が持ててきます。

続いて吉備の高島に移りますが、吉備(笑)。また700年頃の古事記解釈者が勝手に挿入した地名です。「吉備」が当時ありましたか。吉備が倭に加わったのは桃太郎の鬼退治で有名な吉備津彦が活躍した第十代崇神天皇の時です。

岡山市にある備中の一宮である由緒正しい吉備津神社の縁起にそう書かれています。

吉備津神社

700年の古事記解釈者はさりげなく、当時の解釈を盛り込んできます。「吉備」は神武の頃存在していないのです。

そうすると高島は鳴門の高島になります。塩田だった場所として有名な島ですが、有名な古墳がないようです。徳島の高齢の地元研究者によると、鳴門は80年代から道路や橋をガンガン作り始め、ちょっとでも掘ると埋蔵物や人骨がぞろぞろ出て来て、それを県に報告すると工事がストップするからただ海や谷間に捨てていたそうです。

高度成長期です。古いものは何でも破壊しました。徳島県民はさらに新しいものが好きなんだそうで、当時は誰も心が痛まなかったのでしょう。ポイポイ偉大なご先祖様を谷間や海に捨てました。

基本的に吉野川の北岸丘陵地は掘れば掘るだけドンドコ出てくるところで、その延長にある鳴門市の高島や大毛島で出ないはずがありません。しかし土建屋さんにやられてしまったのです。

現在ではある程度の大きい土建工事をするときは、埋蔵物がないか予備調査をすることが義務付けられています。そのため、歴史的大発見に至る埋蔵物が徳島でガンガン見つかっています。

昭和の時代に古都は近畿か九州のような誤った概念が広まって今に至るのは、徳島の土建屋さんがぽいぽい埋蔵物を捨てて古墳を破壊していたからなのです。

そしてもう一つ何か凄い物が出てくると、宮内庁に持っていかれてしまってどこにあるか分からなくなってしまったからです。

この二つのせいで古都徳島の本当の姿が見えなくなってしまったのです。

さて神武は鳴門の高島にたどり着きました。東岸にあるはずの大阪南部を見据えてそこからどう攻略するか「我武神」らしく作戦を練りに練ったことでしょう。

次はいよいよ神武が瀬戸内海を渡るところからスタートします。

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神武天皇は実在した―地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第三回

神武天皇すら実在しないと思い始めた日本の知識層

見える物を見ないで、見えない物が見えると言い続けていると結局自己矛盾に陥り、その対象自体を考えるのが嫌になってしまいます。

邪馬台国研究もすでに阿波論以外の人はギブアップした感がありますが、天皇のルーツをたどる場合もそうです。

イザナギ・イザナミからトヨタマヒメ(古事記上巻の範囲)は神話であって、実際の歴史ではないということで、相当多くの人が納得していました。また、二代から九代までは欠史八代と言われていて、実在しないと言われていました。崇神天皇も怪しい、神功皇后も朝鮮半島を征伐したなどと荒唐無稽な神話の世界だということで、倭五王として中国の宋書や梁書に出てくる履中天皇あたりから実在の天皇ではないかという話になっています。

そして遂には初代の神武天皇もいなかっただろう、という話になりつつあります。そんな書物を見たことのある人もいるでしょう。

神武天皇が架空の人物ではないかという根拠は、神武天皇が、大阪南部に進出するいわゆる神武の東征の前に住んでいたところが、「日向」すなわち、多くの人が宮崎県の日向(ひゅうが)だと思っているからです。

宮崎県だと何がまずいかというと、まだこの頃は大和朝廷に従属しない熊襲の皆さんの国だからです。大体北九州のごく一部を除けば、甕棺墓文化という近畿や四国中国では見られない独特の埋葬形式を持った別民族の皆さんが九州の大部分に住んでいたのです。

これはまずい、そうなると神武天皇は熊襲出身ということになってしまう!ということで、この件はタブーとなり、タブーにしておくだけでは皇室の名誉を保つのに足りないので、神武天皇は存在していない、神話の人物だということになりつつあります。

もう少し詳しく古事記や日本書紀を読んだ人がこれはおかしいなと思う点は、彼は東征するにあたって、

〇海は一回しか超えていない。いつどうやって福岡—山口間を渡ったのか

〇高千穂を出て、なぜか宮崎の日向、北部の筑紫、広島のタケリ、吉備の高島とそれぞれ何年か住んだ後、海を渡って大阪の「南部」に侵入した。

〇そうした本州を長い間移動していた際、神武に対して一切の反乱や抵抗が起きていない。

〇最初の進入では現地のナガスネヒコに返り討ちに会い、敗走し、また出直して今度は和歌山から侵入し北上し、ナガスネヒコを討った。

〇大阪近辺ではナガスネヒコだけでなく、ありとあらゆる部族が抵抗した。

これだけ読んでも実におかしいことになります。どういうことかというと、

◇九州と山口の間にも海がある。しかもかなりの難所で簡単にわたることはできなかった。

◇神武の頃、本州の中国地方、四国地方をすんなり通れるほど西日本が統一されていたとは考えられない。まして九州の王がのこのこ出てきたら返り討ちに合うはず。

◇いったん負けて敗走し体勢を立て直すにしても、また九州まで戻ってもう一度出てきたのだろうか?そんなことをしたら戦費も犠牲も多くなるはずである。和歌山に陸路で下がったにしても熊野は現在でも分かる通り歩くのが大変なところで、そんなところに歩いて撤退したら全滅するのではないか?

◇大阪の周辺ではなぜものすごい数の部族が抵抗したのか?

と普通に考えれば疑問がわいてきます。更にツッコミを入れたい場合は、ナガスネヒコの話を深堀りしていくことになりますが、とりあえず、ここまでで神武が九州から来たという話にするとおかしいことになってしまうというのは分かってもらえたと思います。

実は神武天皇とその奥さんアヒラヒメは阿波の人間だった

ところが神武天皇が阿波(徳島)の人で、東征をスタートしたのも徳島から、ただ向かい側の大阪南部に出て行っただけ、と考えると実に上記の謎がスッキリ解けます。

そんなバカなと皆さん思うと思うので、外堀をじわじわ埋めていく方法で議論していきます。

まず神武天皇の最初の妃の名前は古事記では 阿比良比売(あひらひめ) 、日本書紀では 日向国吾田邑の吾平津媛となっています。

日向にいた時にもらったお嫁さんだから、まあ、そうでしょう。ところが、アヒラヒメが祀られている神社は徳島県藍住町の伊比良咩神社(いひらめじんじゃ) しかないのです。全国で唯一です。

普通、八幡神社など見れば分かる通り、人気のある神様は全国いろんなところで祀られますが、アヒラヒメが生んだ息子は、皇位を争い、二号さん(と言って良いのか・・・分かりやすく現代ラノベ風にしています)の息子さんたちに討たれて、長子だったのに二代目天皇になれなかったのです。

すなわち反逆者のお母さんになってしまい、全国で非常に不人気で、これは生まれたところ以外は祀れないということになったのでしょう。

今はゆめタウンという大型のショッピングモールがあって、徳島の中でも比較的人口の多い藍住町。昔は吉野川水系やあるいは河口にかなり近かったようで、戦国時代にできた藍住町の勝瑞城(しょうずいじょう)からは海にすぐ出て行けたようです。細川氏や三好氏はこの勝瑞城を本拠地としていました。

ということで、今の藍住町は当時は日向(ひむか)の吾田(あた)とよばれていたところだったのです!

長髪比米の日向

もう一つ、日向は日向ではなくて、阿波論でいうひむか、という阿波の地名だったことを裏付ける話に日向の髪長媛(かみながひめ)の話があります。

日向の髪長媛は応神天皇に見初められたお姫様です。応神天皇も阿波、特に藍住町に深く関係のある天皇でしたが、それは置いておいて、日向の髪長媛との出会いは次のような話です。

日本書紀 巻第十 (應神天皇)
十三年 秋九月の条に

〔一(ある)は云う、-中略-始めて播磨に至りし時に、天皇(すめらみこと)淡路嶋(あはぢのしま)に幸(いでま)して遊猟(みかり)したまふ。是(ここ)に天皇(すめらみこと)西(にしのかた)を望(みそなは)すに、數十(とをあまり)の麋鹿(か)、海に浮きて来り、便(すなは)ち播磨の鹿子(かこの)水門(みなと)に入る。

伊佐爾波神社より引用

これを簡単に言うと、「兵庫県に応神天皇が初めて行ったとき、淡路島に出て来て、西の方を見てみると数十の鹿が海に浮かんでこちらにやって来た」というものです。

淡路島から西を見て、果たして宮崎県が見えるのでしょうか!?淡路島から西を見てもらえば見えるのは鳴門しかありません!高松や小豆島も見えるでしょうけども(笑)。

いずれにしても絶対に宮崎県は見えません。日向(ひむか)を宮崎県のひゅうがだというのは、後の古事記解釈者の後付けなのです。

なお、引用させていただいた 伊佐爾波神社 は四国の愛媛にあります。門にはこの時の情景を示す波を泳ぐ鹿が彫られています。髪長媛もまた四国のお姫様なのです。

このようにアヒラヒメや髪長媛は四国の人間で、日向はひゅうがなどではなく、ヒムカという今の藍住町に実在した場所だったのです。

さて、ここまでで日向はひゅうがではなく、徳島県のひむか=今の藍住町だということが分かりました。

来週は東征の前に一体どこを神武天皇はうろうろしていたのかを紹介します。

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地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第二回

見えないものが見え、見えるものが見えないのはおかしい

前回、邪馬台国が見つからないのは、思い込みとタブーと認めたくない病のせいだと書きました。

今日は思い込みについて書きますが、実に思い込みというのは恐ろしいものです。

思い込み合戦は江戸時代から

邪馬台国が見つからないのは江戸時代の本居宣長や新井白石といった初期の邪馬台国研究家から綿々と続く思い込みのせいです。中国の史書に出るほどの国だから、奈良や京都のような近畿地方にあったに違いないという思い込みと、九州からも遺跡が見つかるのだから九州に違いない、という思い込み。どちらも意地を張って素直に自分たちは間違っていると認めません。

特に近畿説は、邪馬台国にたどり着く道程に出てくる方角を90度捻じ曲げて、南に行くところを東だ!といってごまかします。しかし90度捻じ曲げたせいで、邪馬台国の東にも倭人の国がたくさんあると書かれているのに、東が北になってしまうと都合が悪いので、それは捻じ曲げる必要なく(関東のような)東だ!と持論を自分で破たんさせています。

九州説も方角についてはあいまいなところがあり、一旦九州に上陸したのちどこかまた水上を行くのに、それはないことにしたりしました。九州説は東に中国四国近畿地方という倭人の国があるので、近畿説よりは若干有利です。

近畿説は、暖かい地方のことを言っている動植物の描写を無視します。九州は暖かいのでそうかもしれないと思えないこともないでしょう。

しかし、山口と接触している北九州を除いて九州は甕棺墓が普通です。それからまた北九州を除くと、いわゆる熊襲の国として長らく倭と対立していました。そのため、邪馬台国は九州土着の女酋長が治めた国だなどという珍説に落ち着かざるを得ませんでした。

70年代に出た邪馬台国、卑弥呼の本を私も何冊か持っていますが、その中で70年代に邪馬台国について書かれた本が既に百数十冊もあると書かれています(『女王卑弥呼99の謎』樋口清之 産報ジャーナル 1977)。

これだけ多くの、少なくとも普通の人よりもたくさんの労力と時間をかけて丁寧に調べた皆さんが、邪馬台国は近畿か九州にあるはずだという思い込みのせいで、真実にたどり着くことができなかったのです。

ただ魏志倭人伝をそのまま読めば、これは四国なんじゃないか?とすぐ分かったのですが・・・

四国の調査が遅れていたという事実はある

しかしこれにはやむを得ない事情もあるかもしれません。明治以降の四国の多くの人は新し物好きで、古いものに興味がありませんでした。

年配の方から聴きましたが、90年以前は道路工事などで古墳や人骨が出ると厄介なものが出たということでそのまま捨てていたそうです!

鳥居龍蔵という立派な考古学者、民俗学者も輩出しましたが、彼も徳島で出たものを中央のどこかに持っていってしまいました!県内に残っていません。

しかし、90年代から埋蔵物に対する意識も変わり、一定規模の道路工事や建設をする際は予備調査をすることになりました。すると出るわ出るわ・・・

大判小判がざっくざく(笑)

余り大判小判の話は聞きませんが、銅鐸などはバンバン出ます。人骨もバンバン出ます。箱式石棺と呼ばれる埋葬法でバンバン出ます。この箱式石棺こそ、魏志倭人伝の言う、郭のない墳墓です。もしこれがカメに入っていたら、必ず中国人は奇異な風習として記録したことでしょう。

昔からある程度古代史が好きな地元民には知られていたもので、ちゃんと調査され直したものもあります。弥生時代終わりからの日本で唯一の辰砂の採掘坑である阿南市の若杉山辰砂採掘遺跡などそうです。「その山に丹(辰砂のこと)あり」と魏志倭人伝に書かれています。

80年代から、阿波(徳島のこと)はもしや、飛鳥以前の古都だったのではないかと思った地元の方たちが本を書き始めました。

そうしたものは後にまた紹介していきますが、地名や寺社に伝わるいわれ、古事記上巻に出てくる神々を祀るユニークな式内社の存在など、次々と明るみに出てきました。

特に大ヒルメ(アマテラスオオミカミ)の墓がある式内社、徳島市の八倉比売神社の存在。これはすごいものです。そしてもう一社、崇神天皇の時代に疫病が蔓延し、アマテラスと一緒に祀るとよくないということで、アマテラスの方が他地方(伊勢)に移ることになってしまって、阿波に残った美馬市の倭大國魂神社の二つが存在します。この二社はこれ以上ない阿波が飛鳥以前の古都だったことの証拠でしょう。

邪馬台国ではなく「やまと」だった

邪馬台国を見つけるのを不可能にしたのはその名前です。やま、の二文字まで合っているのですから、もうこれは「やまと」だろう、と思うところが、なかなかそれが認められず、幻の(架空の)ヤマタイコクを追い求めてしまいました。

しかし、中国の後漢書には107年に倭が使者を送ったことが記されていて、それを解説した通典(801年)では「倭面土」と国名がなっていて、日本書紀を解説した日本書紀纂疏(1457年)でも「 倭面土 」となっています。

すなわち、中国に使者を送っていた国は「やまと」 (イェバットーのような発音でしょうか) と発音される国だったのです。

本居宣長は傑作で、通典に「倭面土地升等獻生口 」と書かれているのを見て、「面土地」の三字は意味が明らかでない(『日本国家の起源』井上光貞 岩波新書 1960)などと言っていました。

しかし素直に読めば、「やまとの地の国王(と)師である升 らが奴隷を献上した」と読めるはずです。 「面土地」 などという変なところで切る必要はないのです。 師 は軍師のことでしょう。等と複数になっているので、国王と軍師の「升」が送ってきたのです。

これは普通に読めば、それ以外には読めません!それを本居宣長ほどの人物が、思い込みのせいで、「倭」はそれだけで「やまと」と読むから、残りは 「面土地」 で何のことか分からない!?と言っていたのです。

倭はそれだけだと、イとかワイとしか読めませんし、まして大和はダイワとしか読めません。中国人にこれらの漢字はなんと読むか聞いてみれば「ヤマト」と読む人はただの高度な日本通でしょう(笑)中国人は発音を正確にするため 「倭面土」と書いて「やまと」と聞こえる音の通りに書いていたのです。倭の一字は略称であり、若干蔑称の意味で使われていたのでしょう。

本居宣長の例はここまでくると滑稽を通り越して、悲壮感さえ漂います。

素直な四国倭邪馬台国論を完成させるために

このように江戸時代から激しい思い込みで何も進まなかった邪馬台国の研究ですが、ついに畿内説、九州説双方とも破たんして、どうでもいいや、という風潮になっています。最近誰も邪馬台国について語りません。

ぜひ、まだ邪馬台国に興味がある学者は四国、特に徳島に来てもらいたいものです。鳥居龍蔵の頃など学会のタブーが以前は強かったようですが、若杉山辰砂採掘遺跡のおかげで、タブーもなくなり、いよいよすべてが明るみに出ようとしています。

ぜひ素直な四国倭邪馬台国論を完成させるために皆さんも四国に足を運んで実際に目で見て感じて行ってください。

次回は、思い込みの実例の一つとして、神武天皇のことを書いていきます。神武天皇も元は阿波の人です。んなアホなと思うかもしれませんが、来週をお楽しみに。

前記事地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第一回>はこちら

地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第一回

「地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張」というタイトルで、10カ月ほど記事を書いていくことにしました。

すでにアマゾンのKindeで「Q&Aでよくわかる!! 阿波倭邪馬台国論入門 Kindle版」という本を出していますので、このテーマに初めて触れる方は、ぜひこちらをお読みください。

1週間に一度程度記事を追加していくことを目指しています。10か月後にまとめて、新しいアマゾンのKindle本に仕上げていこうと思っていますので、この記事は草稿のようなものです。誰も読む人がいないとなかなか筆が進まないのです。メルマガで出そうかとも思いましたが、最近、自分の書いている物は自分のところに集約して管理しようと思っているので、この自分のHPで発表していこうと思います。

ところで、邪馬台国については90%程度、初期の倭王朝については80%程度の確実さで、徳島県を中心とした四国にあった、ということで間違いないと思います。

特に邪馬台国については、「徳島県を中心とした四国にあり、西部山口と福岡北部は協力関係にあった。以上、おしまい」と非常に短く終わるのですが、なかなかこの事実が全国的に受け入れられるところまでいきません。

しかし、魏志倭人伝の描く邪馬台国は近畿にも九州にもなかったことはうすうす現代の研究者は分かっているようで、もう邪馬台国論争のようなものが起こることもなくなりました。

少なくとも次の四点から、四国にあったのは事実であり、それを覆すことはできないのです。

(1)邪馬台国にたどり着くには、九州に上陸した後、再び水上に出て、さらに長期間歩く。九州ではない。

(2)暖かい地域であると書かれていて、動植物も暖かい地域のものを指している。海女の文化やアワビ、ミカンと思われるものが出てくる。奈良や京都ではありえない。

(3)その山に丹(辰砂)を採掘する山があると書かれていて、徳島県阿南市の若杉山辰砂採掘遺跡以外にこの時代辰砂が出る採掘所はない。

(4)葬儀の形式が箱式石棺と呼ばれる四国と一部瀬戸内海地域にしかない葬儀の仕方である。甕などに入れない。甕棺が主流である九州の勢力ではない。

これだけでもう十分で、こうした証拠を覆すことはできないのです。現在徳島県民のほとんどが、邪馬台国は徳島の山上にあったという話を当たり前のように思うところまで来ています。

思い込みとタブーと認めたくない病のせいで間違った論争に

しかし日本のアカデミックな場では、邪馬台国は四国にあった、などと口に出してはいけないようです。そもそも邪馬台国の話すら、最近はほとんど聞かないように思います。書店でも新刊は出てこないようです。

どうしてこうなったかというと、やっぱり間違ったことを言い続けるのは学者も辛いからでしょう。例えるなら、最初に問題を設定する際に間違ったのです。鯨を探すのに、池や川を探して、理由をあれこれ考え、池派と川派で論争までしていたのですから、大変な間違いでした。

しかも日本人最高の頭脳を持つような方たちが 池派と川派で論争をしていたのですから、恐ろしいことです。誰か、そうじゃない、海を見ろ、目の前に鯨は居るだろ!!と言えば良かったのです。

鯨を例えに使ったのは、高知県では鯨を見ることができるからです。意外にこのことは知られていないと思います。鯨を見に、ハワイまで行く人が多いですが、これからはぜひ高知県に行ってください。

実は黒潮に乗れば、暖かいところの物や人まで四国に届いてしまう・・・ここから更にぐんぐん、千葉県や東北まで行けてしまう、という事実をなかなか日本人の本州に住む人は理解できません。

私も実家は宮城県の仙台、社会人になってからは外国と東京に住んでいたので、まさか高知県で鯨が見られるとは思っていませんでした。

池派と川派の先生たちも知らなかったのでしょう。邪馬台国は海とつながっていてそこの住民は航海に慣れ親しんでいてあちこちに自由に行けたのです。

黒潮の話が出てきたところで良い感じで第一回目の記事を終えます。第二回は次週を予定しています。