前回制作者についてはそれほど美学では重要視されない、というのも特に西洋絵画は画商や貴族の間で売り買いされる間に製作者の手を遠く離れて行ってしまい、製作者の生い立ちや生活状況、思想はあまり気にならなくなるからだという話をしました。
現代はずいぶん違っていて、製作者の生活の全て、発言や思想のすべてまで知りたいファンが多いわけですが、昔はそれができなかったわけです。
なので作品から美を感じるしかありません。まあ、製作者自身がヘヴィーメタルで言えばランディー・ローズのような神々しさを持っていればその存在自体に美を感じたくなりますが、通常は作品があればもう十分良いわけです。
この作品の美をどう定義するかというのは美学の古典と今風とを分ける良い分岐点になっています。キリスト教の影響が強い時代には、美とは善と同一であり、それは神の国と同じもの、あるいは神の徳と同じである、という考え方が強いです。プラトンに始まり、シャフツベリ伯爵(第3代アントニー・アシュリー=クーパー(1671年 – 1713年))はまさにそう考えていました。ちなみにシャフツベリと日本では呼ばれていますがそれは人物名ではなく、伯爵のタイトル(宮城県知事みたいな・・・)で、彼の名前としては、アントニー・アシュリー=クーパーです。
カント(1724-1804)が古典的美学と今風美学との分岐点となっていて、カントは美を感じるということは観る人と作品との間の知的なインターアクションによる遊び、と考えました。それでも美自体は善や徳と同じであるという考えは捨てられませんでした。
古典的考えでは神々しい彫像などに限らず、郊外の自然を描いたような画であっても自然は神が作った美しいものなのだからそれを描いた画には美が表現されいる、神が善でないものを自然の中に創造するはずはないので、自然の美は善である、という考えが支配的でした。
この考えに従うと、不自然な人工物を描いたりすれば、それは善ではないし美ではないということになります。幸い、作品の発注者である当時のお金持ちは美しい画や彫刻を見たいので、不自然なものをあえて作るほど暇で労力を無駄にする画家や彫刻家はいませんでした。
この神が善でないものを作るはずはないので、名画や名彫刻は美=善という性質を持つという考え方は現代までもかなりしつこく残ったようです。
ですので酒場に出入りする人物たちをありありと描いたロートレックは当時高い評価を得られませんでしたし、デュシャンが普通のトイレの便器を『泉』として展覧会に出したときは天地をひっくり返したような騒ぎになるわけです。
果たして酒場に現れる娼婦やダンサーが美であり善の存在か?ただのトイレの便器が美であり善なのか?彼らは神が作った物なのか?神の善は一体どこに表現されているのか?
というどうしても破ることのできない固定観念との闘いが、葛藤が西洋人鑑賞者の魂レベルであるわけです。信仰のレベルともちょっと違う、まさに生まれつきの魂のレベルのように思います。
日本は鳥獣戯画など楽しく書いてそれを美しいと思いますし、江戸時代は見るのがちょっと恥ずかしいですが春画もありました。中国にも春画のジャンルがあります。そもそも東洋人は滝に登る鯉の墨絵を見て美しいと思ってしまいます。猫や鶏も墨絵で書くとかわいいですね。
このあたり、美学とはなんだろうと考える際に西洋人の感覚を理解してあげないと、何で西洋画は人物画だの動きのない郊外の風景画だの果物の画だのばっかりなんだろう、などと無用な詮索をしてしまいます。
そしてこの背景の理解がないと、カントから現代へとつながる美学の流れ、鑑賞者と社会に焦点を当てた美学理論の進化を理解ができないことになります。
ではまた次回。
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私の作品
現代社会では何かが欠けている、多くが抑圧されている。そうしたことをテーマに表現しています。
『四季の為の音楽』失われていく四季をたたえ思い出すミニマルな作風。
『生命軽軽的転回』生命の豊かさを賛美した、無償で手に入るAbleton Live Liteだけで作った珍しい作品
この二作はアンビエント環境音楽です。
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