美学編 その4 いよいよカントに入るのだが

いよいよカントです。

ごくっ

今生唾を飲みましたね。緊張の一瞬です。でもご安心ください。カントの解説っぽく話しませんので大丈夫です。

AIとこの3カ月カントとヘーゲルについて討論してきました。その結果、難解なカントの美学がおおよそ分かりました。

<独特のカント語が理解を妨げる>

さてカントの解説書を読むと「おや?間違ってないか?」と思われることが書いてあります。理由はいくつかあるのですが、カントの有名な本は三冊あって、だんだんと理解が深まるというか、焦点が絞られるのですが、独特のカント語とも言うべき言葉が理解を妨げるのです。

そもそもその三冊タイトル、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』 に批判という言葉が付いていますが、これは一般的な意味の「相手や対象を攻撃する」という意味ではなく、「よく検討して要らないものをふるい分ける」という意味で使われています。もうここから分からなくなるでしょう。そして多くの哲学者は一冊目の 『純粋理性批判』 の話だけをします。これだけでおなかいっぱいということもありますが、二冊目の 『実践理性批判』 は道徳について、三冊目の 『判断力批判』 で美と自然の検討に移ります。

<美までなかなかたどり着かない>

三冊いずれも大著なので、カント語を理解しながら三冊話をつなげていくのがなかなかアナログな時代では分かりにくいです。美までたどり着いた人はなかなかいないと思うのですが、美のところだけを読むと話がちんぷんかんぷんになるのもカントの恐ろしいところです。

そしてカントが考えたことは恐ろしいことに現代のコンピューターモデルや認知心理学、脳科学に非常に似ているのです。ですのでアナログな時代にカントを読んだ人の頭は「?????」となったに違いないのです。

ですので、結構多くのカント解説書で「いや、ちょっと違うんじゃないかな?」ということが書かれてきました。

<デジタルの時代だから分かるカント>

ではいよいよカントに入ります。とは言ってもカント語を使うと分からなくなるので、普通のことばを使います。とは言ってもデジタルな脳科学や認知心理学が一般的な21世紀だからこそ語れる普通のことばです。

カントがまず基本的に言っていることは、こんなことです。人間は物を見てそのものの形や色や全体性を頭の中で再構築してそれを特定の物と認識することができる、というものです。

え!?簡単すぎる?ところがカント以前は違っていたのです。物はもうモノとして決まっていて、物が人間の目のほうに飛び込んでくるので人間はそれを特定の物とそのまま思う、というのがそれまでの常識だったのです。

このようにまず人間がモノを見て主に目から入る情報を手に入れ、それを総合して「おそらくあのモノだ」と認識できるようになるという、方向性が逆になっていることを「コペルニクス的転回」などと大げさに言います。

物を見る人間がモノを判断するのは当たり前だのクラッカーと今思いましたね。でもここには哲学的に深い意味があるのです。人に見られていない物はでは存在しないことになるのか。という深い問題です。

人間が見るから物が頭の中にモノで存在しうるという考えは危険です。見なければその物はそこにあるけど存在しないということになりますから!

そして自然にしろ物にしろ神様が作ったもののはずだから、存在しないなんて言ってはいけない!というのがこれまでの哲学でした。

これを彼は人間が見るから、その見た人間の頭の中にそのモノが認識としてでき上ると遂に真実を言ってしまったのです。

<バラバラのものを組み立てる>

ここがデジタルで絵を描いてる人はすぐ分かりますが、実は目に入ってくる情報だけでは光の色や強さだけで、それが形を成すには頭の中で結合されて他の情報と切り離されて独立して形を成さなければなりません

デジタル画ではドットを集めて線や形を描きますがそれが前に浮き上がって他の背景と切り離されていなければなりません。

こうして感覚(器官)で集まった情報は脳に送られ、統合され一つのモノの形として認識されますが、こうした統合をするためにカテゴリーと呼ばれる認知の枠組みがあります。

カテゴリーに入ってきた情報はその量や質を判定されて、これは「あのモノに近い。リンゴに間違いない」と決めてくれます。

こうしたカテゴリーは12種類あり、それは生まれつき人間に備わっている物です。この「生まれつき」もカント語でアプリオリと言うので訳が分からなくなりますが、生まれつきで良いのです。

<もう大分進んだのでまた次回>

ということでもう大分進んだのでまた次回です。次回は私の大学卒業論文の失敗へと今日の話がつながって行きます。お楽しみに!

美学編 その4 商業音楽における美は絵画や彫刻とは違うのか

カント的な鑑賞者の心理と作品とのインターアクションについて語る前に音楽の作品の美について話しておきましょう。

なにせ私は大学では哲学科美学専攻でしたが、アーティストとしては作曲家・演奏家なのですから、絵画や彫刻よりはこちらをもっと語りたいのです。

ところで音楽の特に今ではおそらく人類のかなりの数の方が聴く商業音楽については衝撃的な事実があります。一番最初に商業ベースでレコードを録音したのはイタリアのオペラ歌手エンリコ・カルーソーという方で、それは1902年のことです。1902年・・・え!そんな新しいの?

レコードが生まれてからまだ123年しかたっていません。それまで音楽というものは、演奏されている広場などに観に行くか、お金があれば自分の家や城に来てもらって演奏してもらう物しかありませんでした。農村漁村だと伝統的な仕事の時にみんなで歌うような歌はありましたが、気軽にいつでも家で音楽を聴けるようになった最初の段階が1902年です。

その後、しばらくオペラやクラシック、ジャズの前身であるラグタイムやブルースがレコードになったようですが、レコードが大衆的に大量に出回るのは1920年代ルイ・アームストロングの録音からです。

ということは、大衆音楽の美とは何なのかということを考えると、どうも神やイデア界が宿っているような時代はとっくに過ぎ去っていて、まったく関係がなさそうだということになってきます。もちろん信仰深いリスナーもいるでしょうし、現代でもクリスチャン・メタルというジャンルがありますが、歌詞以外はただのヘビメタです(笑)。

自然の風景に美や善が宿るとの哲学もありましたが、雨音を聴いてインスパイアされたブライアン・イーノのアンビエント三部作にはそういう自然美が宿っているでしょうか。音色は電子楽器の音ですが・・・サウンドスケープのように自然音を切り貼りしたものもあると言えばありますが・・・

大多数の商業音楽は元がロックバンドでもDTMでも最終的にはスタジオで電子的に録音・編集されたもので、形式上からはあまり神が宿っていたり自然を切り取ってきたようには思えません。彫刻の形式から受けるダイレクトなインパクトと大違いです。酒神バッカスの彫像を見れば、おお、これがバッカスか!とすぐそう思ってしまいます。実際のバッカスはもしかして違うかもしれないと疑いませんよね?

歌詞のほとんどはラブソングで確かに愛はギリシアの神の物語や牧歌的な自然の情景から受け継がれていると言えないことも無いかもしれません。しかしテイラー・スイフトのように次々と恋人を取り換えそれをいちいち歌にするような神はいたでしょうか?ジャニーズもそうですが、よく考えると同じ歌手が次々とラブソングを歌っていくということは次々と恋人を取り換えひっかえしていて(歌詞の上でのことなので気にするな!と言われればそうですが)そこに真の愛の賛美が果たしてあるのか疑問です。

演奏者が神の力を借りて演奏していると考えるのはどうでしょう。確かに60年─80年前半は神がかった演奏者が超人的な能力で演奏していました。しかし80年代から電子楽器が優勢になり、今は演奏者はボーカル以外全くいないものがあります、というか制作費と契約上のゴタゴタを抑えるためほとんどそれです。もうボーカロイドを使えばボーカルも要りません。

なお、2000年くらいまでは商業音楽は、テクニック重視からテクニックは要らない単純に!そしてまたテクニック重視へ、という循環を10~15年周期でやっていましたが、2000年からは単純化がずっと優勢で、ギターソロも要らないという極端な感覚が定着しています。

これらを見ていくと、商業音楽は最初から、絵画や彫刻で脈々と受け継がれてきた、作品には神が宿るという哲学は存在しないのではないでしょうか。作品には製作者の魂が宿っている、と言ったほうがほとんどの方が納得するでしょう。

それでも、アート・テイタムの鬼の速さと正確なピアノとかジョー・パスのヴァーチュオッソとかランディー・ローズ期のオジー・オズボーン二枚とか、クリームのライブとかイエスの危機とか聴くと、これは神がかっている!絶対に何か宿っていると思うアルバムもあります。

そこに宿っているのは神なのか、演奏者の魂なのか。聴く者みなそれを同じように感じ取れるのか、どういうメカニズムでそれを感じ取れるのか、そういうことを考え始めると美学が面白くなります。

その美学の面白さの最初の入り口がカントです。毎日同じ生活したつまらない人というイメージしか高校では習いませんが・・・次回はカントの話をします。

私のグッズ

私のグッズはTシャツやリストバンドではなく本です!!あなたの目覚めを手伝う本を多数書いています!!

阿波倭邪馬台国入門

ディストピアの作り方

パブリック・スピーキングのためのスピーチ原稿作成法 レベル1教材 -構成、レトリック、思考法を習得し賢慮を養う法-

などがベストセラーです!
https://amzn.to/3Htitn7

Xで1万人フォロワーがいます。良ければフォローしてください。
@SugaiHideaki

BandcampでCDになっていない作品を発表しています。
https://sugaihideaki.bandcamp.com/

###########

美学編 その3 作品の美は善に通じる

前回制作者についてはそれほど美学では重要視されない、というのも特に西洋絵画は画商や貴族の間で売り買いされる間に製作者の手を遠く離れて行ってしまい、製作者の生い立ちや生活状況、思想はあまり気にならなくなるからだという話をしました。

現代はずいぶん違っていて、製作者の生活の全て、発言や思想のすべてまで知りたいファンが多いわけですが、昔はそれができなかったわけです。

なので作品から美を感じるしかありません。まあ、製作者自身がヘヴィーメタルで言えばランディー・ローズのような神々しさを持っていればその存在自体に美を感じたくなりますが、通常は作品があればもう十分良いわけです。

この作品の美をどう定義するかというのは美学の古典と今風とを分ける良い分岐点になっています。キリスト教の影響が強い時代には、美とは善と同一であり、それは神の国と同じもの、あるいは神の徳と同じである、という考え方が強いです。プラトンに始まり、シャフツベリ伯爵(第3代アントニー・アシュリー=クーパー(1671年 – 1713年))はまさにそう考えていました。ちなみにシャフツベリと日本では呼ばれていますがそれは人物名ではなく、伯爵のタイトル(宮城県知事みたいな・・・)で、彼の名前としては、アントニー・アシュリー=クーパーです。

カント(1724-1804)が古典的美学と今風美学との分岐点となっていて、カントは美を感じるということは観る人と作品との間の知的なインターアクションによる遊び、と考えました。それでも美自体は善や徳と同じであるという考えは捨てられませんでした。

古典的考えでは神々しい彫像などに限らず、郊外の自然を描いたような画であっても自然は神が作った美しいものなのだからそれを描いた画には美が表現されいる、神が善でないものを自然の中に創造するはずはないので、自然の美は善である、という考えが支配的でした。

この考えに従うと、不自然な人工物を描いたりすれば、それは善ではないし美ではないということになります。幸い、作品の発注者である当時のお金持ちは美しい画や彫刻を見たいので、不自然なものをあえて作るほど暇で労力を無駄にする画家や彫刻家はいませんでした。

この神が善でないものを作るはずはないので、名画や名彫刻は美=善という性質を持つという考え方は現代までもかなりしつこく残ったようです。

ですので酒場に出入りする人物たちをありありと描いたロートレックは当時高い評価を得られませんでしたし、デュシャンが普通のトイレの便器を『泉』として展覧会に出したときは天地をひっくり返したような騒ぎになるわけです。

果たして酒場に現れる娼婦やダンサーが美であり善の存在か?ただのトイレの便器が美であり善なのか?彼らは神が作った物なのか?神の善は一体どこに表現されているのか?

というどうしても破ることのできない固定観念との闘いが、葛藤が西洋人鑑賞者の魂レベルであるわけです。信仰のレベルともちょっと違う、まさに生まれつきの魂のレベルのように思います。

日本は鳥獣戯画など楽しく書いてそれを美しいと思いますし、江戸時代は見るのがちょっと恥ずかしいですが春画もありました。中国にも春画のジャンルがあります。そもそも東洋人は滝に登る鯉の墨絵を見て美しいと思ってしまいます。猫や鶏も墨絵で書くとかわいいですね。

このあたり、美学とはなんだろうと考える際に西洋人の感覚を理解してあげないと、何で西洋画は人物画だの動きのない郊外の風景画だの果物の画だのばっかりなんだろう、などと無用な詮索をしてしまいます。

そしてこの背景の理解がないと、カントから現代へとつながる美学の流れ、鑑賞者と社会に焦点を当てた美学理論の進化を理解ができないことになります。

ではまた次回。



###########
私の作品

現代社会では何かが欠けている、多くが抑圧されている。そうしたことをテーマに表現しています。

四季の為の音楽』失われていく四季をたたえ思い出すミニマルな作風。

生命軽軽的転回』生命の豊かさを賛美した、無償で手に入るAbleton Live Liteだけで作った珍しい作品

この二作はアンビエント環境音楽です。
アマゾンミュージック
https://amzn.to/4jHlE89

私のグッズ

私のグッズはTシャツやリストバンドではなく本です!!あなたの目覚めを手伝う本を多数書いています!!

阿波倭邪馬台国入門

ディストピアの作り方

パブリック・スピーキングのためのスピーチ原稿作成法 レベル1教材 -構成、レトリック、思考法を習得し賢慮を養う法-

などがベストセラーです!
https://amzn.to/3Htitn7

Xで1万人フォロワーがいます。良ければフォローしてください。
@SugaiHideaki

BandcampでCDになっていない作品を発表しています。
https://sugaihideaki.bandcamp.com/

###########



美学編 その2 え?美学では製作者は無視なの?

美学の世界では今一つ制作者に対する考察が弱いです。と言うより伝統的に無いです、と言っても良いかもしれません。

これは意外です。なぜなら現代アートにしてもポピュラー音楽にしても誰がどうやって制作したかの情報がネットで見れますし、著名な方であれば雑誌に記事として出てきます。熱心なファンなら製作者の生年月日や家族構成、影響を受けた先人や先輩の名前、好きな食べ物まで!知っていることでしょう。

実際、作品よりも制作者の名前の方が有名なアート作品や音楽が多数あります。坂本龍一氏と言えばみんな知っていますが、彼の音楽となると途端にうーん、YMO?ラストエンペラー?それ以外思い浮かばないな─という人が多いと思います。

ちなみに私は『未来派野郎』という80年代中ごろに出たアルバムが大好きで、一種私の音楽制作の目標にもなっています。

ということで今は制作者の方が作品より有名!!だったりしますが、少し前はこうではなかったのです。

例えばフェルメールです。フェルメールの絵は何点かパッと思い浮かぶ方も多いでしょう。美術史的に彼の『真珠の耳飾りの少女』の絵を紹介しない教科書などないでしょう。しかしフェルメールがどんな人だったかは謎の時代が長くありました。最近ではかなり発掘され明らかになっていますが。

これは特に西洋美術では仕方がないのです。少し前は画商を通じて絵は販売されていました。画商の知り合いがいなければ絵は売れませんでした!一端画商の手に渡ると、その絵はどこに運ばれていくか、製作者のアトリエからはるかに離れた異国の貴族宅に持ち込まれるのも普通です。

そうなると制作者の生涯についてなどまったく知りようがない人たちがそれを手にすることになります。画商が制作者はこんなこんな人でと説明でもつけてくれればいいですが、大体画家は貧乏でそんな貧乏な人の人生を聞いても絵を買うお金持ちには何の意味もないことでしょう。

ダヴィンチの様にまれに自分で自分のことや美術についての意見をせっせと書き残す人もいないわけではありませんが、多くの制作者は製作が忙しく、そんな自分の情報を書き残すことなどなかったのです。

ギリギリで宮廷に雇われているような画家や音楽家はある程度の生涯の様子が残されていますが、それでも貴族は自分の生活に忙しいのであって、いい絵さえ描いてくれればもうそれでいいのです。

ということで、製作者については美学はテーマとしては考えていないというよりは、考えるほど情報がなかった、ということになるでしょう。

小林秀雄は、昭和後半に高校や大学受験をした方にとっては苦手科目かもしれませんが、『私の人生観』という本で、彼の美学に対する考えを披露していて、美学の考察としては珍しく製作者に焦点を当てています。

それを簡単にまとめると制作者は対象(花でも花瓶でも)を「観る」ことで視野と意識が拡大し、それを宮本武蔵!のような実践主義に基づき物の形にする、というものです。

彼は「観る」と「見る」とを分けていて、製作者の意識は観ることで自然のありのままの姿から拡大していくので、その作品を見る人も観る意識を持って製作者の拡大した意識に近づくことが美術作品に接する方法だとしています。

制作者はそのように深く観ることができるので、作品は自然の模倣ではなく、それを観る者に宮本武蔵のような!共通の認識を与えるべきものとしています。

私は宮本武蔵の例はあまりいい例とは思わなかったのでそれはさておき、名画や良い音楽を聴いたとき、異なる個人が共通した良い気持ちを得るのはなぜだろうというのは美学の大きなテーマです。自然を模倣したのではない、それを超越する何かに深みのある価値や畏敬の念を感じる。そういう作品を作りたいと巨匠たちは意識してか、無意識的にか思っていたことでしょう。

カントもこの鑑賞者が共通して得る感覚について考察しています。

小林はこの自然を超える気持ちは物を作れば誰でも感じる、たどり着ける境地だと考えていて、理論のための理論になっているような哲学や美学、文学評論を否定しています。

まずは物を作ってみろ。

この本は昭和23年の講演を書き起こしたかなり古いものでここで言われていることは当時は奇妙な事だったかもしれません。物を作るのは当たり前の時代でした。地方では生活に必要なもの、ほうきやざるなどは手製で何度も直して使ったもので、物を作るよりそれについて論じる方が高尚だと思われていたに違いありません。

しかし現代ではアートセラピーというものが比較的普通になっていて、障害のある方や心の健康を損ねている方たちが、物を作ったり、鑑賞することで意識や感覚、身体的能力までもが拡張されることは普通に認識されてます。

他の人の意識と自分がつながることができ、その分自分の意識が拡張していくという意味で、作品には物凄いパワーがあるのかもしれません。特に自然を拡張した視点で観る製作者とつながれれば、鑑賞者にもその拡張した視点が自然と芽生えるのかもしれません。

このように自分の意識は自分の意識だけでできているのではないという考えはサルトルやハイデッガーのいう「相互主観性」というものに通じていきます。サルトルハイデッガーはまた別の機会に取り上げます。

サルトルの本は坂本図書にも置いてありました。

情報不足のため制作者について考えることが西洋美学では不可能でしたが、他者なしで自分の存在は無いという現代的な視点から行くと、製作者がどんな人となりであったのかもっと考慮されても良いのかもしれませんね。

とは言っても製作者の名前は知っていても作品は知らないという今の逆転した風潮もどうかと思いますが・・・

※自分のブログはやっぱり自由度が高くていろいろできていいですね!

###########
私の作品

現代社会では何かが欠けている、多くが抑圧されている。そうしたことをテーマに表現しています。

四季の為の音楽』失われていく四季をたたえ思い出すミニマルな作風。

生命軽軽的転回』生命の豊かさを賛美した、無償で手に入るAbleton Live Liteだけで作った珍しい作品

この二作はアンビエント環境音楽です。
アマゾンミュージック
https://amzn.to/4jHlE89

私のグッズ

私のグッズはTシャツやリストバンドではなく本です!!あなたの目覚めを手伝う本を多数書いています!!

阿波倭邪馬台国入門

ディストピアの作り方

パブリック・スピーキングのためのスピーチ原稿作成法 レベル1教材 -構成、レトリック、思考法を習得し賢慮を養う法-

などがベストセラーです!
https://amzn.to/3Htitn7

Xで1万人フォロワーがいます。良ければフォローしてください。
@SugaiHideaki

BandcampでCDになっていない作品を発表しています。
https://sugaihideaki.bandcamp.com/

###########

美学の話を開始します

坂本龍一氏が生前所有していた図書を公開している「坂本図書」を25年三月訪問しました。氏の所有する蔵書の多くが私が80年代に読んだりタイトルだけは知っている哲学書や美学の本だったことに刺激を受けました。私も大学では哲学科美学専攻だったのです。

しかし中々音楽に没頭していた大学時代に哲学書を何冊も読みこなすことはできず、慌てて書いた卒論に必要な物しか読めなかったことが残念です。

またその卒論は盛り込むべき先人の視点を入れられなかったせいかあまりいい成績ではなかったのですが、着目した問題点は優れていたと自負していて、結局その延長でハワイ大学マノア校でニューラルネットワークの研究をすることになりました。なので、もう一度しっかり先人たちを読み直したいと常々思っていました。

坂本図書に刺激を受けて、戻って来てからメルマガスタンドのまぐまぐにて美学の読書のやり直しも兼ねて美学の話題で連載を始めていました。知らなかったのですが、2019年頃からまぐまぐはバックナンバーを見せないようになっていました。二週前の号をご覧ください、のようなことが簡単に言えなくなっていました。

これだといろんな意味で扱いにくいので、まぐまぐから撤退することにしました。私はまぐまぐの最初期におそらく一番最初のネット小説をまぐまぐで書いた人物でまぐまぐにはとても愛着があるのですが、とても残念です。

そこでこの数週間書いた部分をこちらに再掲するとともに、これからできる限り毎週一度美学についての記事を掲載していくことにします。