美学編 その4 いよいよカントに入るのだが

いよいよカントです。

ごくっ

今生唾を飲みましたね。緊張の一瞬です。でもご安心ください。カントの解説っぽく話しませんので大丈夫です。

AIとこの3カ月カントとヘーゲルについて討論してきました。その結果、難解なカントの美学がおおよそ分かりました。

<独特のカント語が理解を妨げる>

さてカントの解説書を読むと「おや?間違ってないか?」と思われることが書いてあります。理由はいくつかあるのですが、カントの有名な本は三冊あって、だんだんと理解が深まるというか、焦点が絞られるのですが、独特のカント語とも言うべき言葉が理解を妨げるのです。

そもそもその三冊タイトル、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』 に批判という言葉が付いていますが、これは一般的な意味の「相手や対象を攻撃する」という意味ではなく、「よく検討して要らないものをふるい分ける」という意味で使われています。もうここから分からなくなるでしょう。そして多くの哲学者は一冊目の 『純粋理性批判』 の話だけをします。これだけでおなかいっぱいということもありますが、二冊目の 『実践理性批判』 は道徳について、三冊目の 『判断力批判』 で美と自然の検討に移ります。

<美までなかなかたどり着かない>

三冊いずれも大著なので、カント語を理解しながら三冊話をつなげていくのがなかなかアナログな時代では分かりにくいです。美までたどり着いた人はなかなかいないと思うのですが、美のところだけを読むと話がちんぷんかんぷんになるのもカントの恐ろしいところです。

そしてカントが考えたことは恐ろしいことに現代のコンピューターモデルや認知心理学、脳科学に非常に似ているのです。ですのでアナログな時代にカントを読んだ人の頭は「?????」となったに違いないのです。

ですので、結構多くのカント解説書で「いや、ちょっと違うんじゃないかな?」ということが書かれてきました。

<デジタルの時代だから分かるカント>

ではいよいよカントに入ります。とは言ってもカント語を使うと分からなくなるので、普通のことばを使います。とは言ってもデジタルな脳科学や認知心理学が一般的な21世紀だからこそ語れる普通のことばです。

カントがまず基本的に言っていることは、こんなことです。人間は物を見てそのものの形や色や全体性を頭の中で再構築してそれを特定の物と認識することができる、というものです。

え!?簡単すぎる?ところがカント以前は違っていたのです。物はもうモノとして決まっていて、物が人間の目のほうに飛び込んでくるので人間はそれを特定の物とそのまま思う、というのがそれまでの常識だったのです。

このようにまず人間がモノを見て主に目から入る情報を手に入れ、それを総合して「おそらくあのモノだ」と認識できるようになるという、方向性が逆になっていることを「コペルニクス的転回」などと大げさに言います。

物を見る人間がモノを判断するのは当たり前だのクラッカーと今思いましたね。でもここには哲学的に深い意味があるのです。人に見られていない物はでは存在しないことになるのか。という深い問題です。

人間が見るから物が頭の中にモノで存在しうるという考えは危険です。見なければその物はそこにあるけど存在しないということになりますから!

そして自然にしろ物にしろ神様が作ったもののはずだから、存在しないなんて言ってはいけない!というのがこれまでの哲学でした。

これを彼は人間が見るから、その見た人間の頭の中にそのモノが認識としてでき上ると遂に真実を言ってしまったのです。

<バラバラのものを組み立てる>

ここがデジタルで絵を描いてる人はすぐ分かりますが、実は目に入ってくる情報だけでは光の色や強さだけで、それが形を成すには頭の中で結合されて他の情報と切り離されて独立して形を成さなければなりません

デジタル画ではドットを集めて線や形を描きますがそれが前に浮き上がって他の背景と切り離されていなければなりません。

こうして感覚(器官)で集まった情報は脳に送られ、統合され一つのモノの形として認識されますが、こうした統合をするためにカテゴリーと呼ばれる認知の枠組みがあります。

カテゴリーに入ってきた情報はその量や質を判定されて、これは「あのモノに近い。リンゴに間違いない」と決めてくれます。

こうしたカテゴリーは12種類あり、それは生まれつき人間に備わっている物です。この「生まれつき」もカント語でアプリオリと言うので訳が分からなくなりますが、生まれつきで良いのです。

<もう大分進んだのでまた次回>

ということでもう大分進んだのでまた次回です。次回は私の大学卒業論文の失敗へと今日の話がつながって行きます。お楽しみに!

美学編 その4 商業音楽における美は絵画や彫刻とは違うのか

カント的な鑑賞者の心理と作品とのインターアクションについて語る前に音楽の作品の美について話しておきましょう。

なにせ私は大学では哲学科美学専攻でしたが、アーティストとしては作曲家・演奏家なのですから、絵画や彫刻よりはこちらをもっと語りたいのです。

ところで音楽の特に今ではおそらく人類のかなりの数の方が聴く商業音楽については衝撃的な事実があります。一番最初に商業ベースでレコードを録音したのはイタリアのオペラ歌手エンリコ・カルーソーという方で、それは1902年のことです。1902年・・・え!そんな新しいの?

レコードが生まれてからまだ123年しかたっていません。それまで音楽というものは、演奏されている広場などに観に行くか、お金があれば自分の家や城に来てもらって演奏してもらう物しかありませんでした。農村漁村だと伝統的な仕事の時にみんなで歌うような歌はありましたが、気軽にいつでも家で音楽を聴けるようになった最初の段階が1902年です。

その後、しばらくオペラやクラシック、ジャズの前身であるラグタイムやブルースがレコードになったようですが、レコードが大衆的に大量に出回るのは1920年代ルイ・アームストロングの録音からです。

ということは、大衆音楽の美とは何なのかということを考えると、どうも神やイデア界が宿っているような時代はとっくに過ぎ去っていて、まったく関係がなさそうだということになってきます。もちろん信仰深いリスナーもいるでしょうし、現代でもクリスチャン・メタルというジャンルがありますが、歌詞以外はただのヘビメタです(笑)。

自然の風景に美や善が宿るとの哲学もありましたが、雨音を聴いてインスパイアされたブライアン・イーノのアンビエント三部作にはそういう自然美が宿っているでしょうか。音色は電子楽器の音ですが・・・サウンドスケープのように自然音を切り貼りしたものもあると言えばありますが・・・

大多数の商業音楽は元がロックバンドでもDTMでも最終的にはスタジオで電子的に録音・編集されたもので、形式上からはあまり神が宿っていたり自然を切り取ってきたようには思えません。彫刻の形式から受けるダイレクトなインパクトと大違いです。酒神バッカスの彫像を見れば、おお、これがバッカスか!とすぐそう思ってしまいます。実際のバッカスはもしかして違うかもしれないと疑いませんよね?

歌詞のほとんどはラブソングで確かに愛はギリシアの神の物語や牧歌的な自然の情景から受け継がれていると言えないことも無いかもしれません。しかしテイラー・スイフトのように次々と恋人を取り換えそれをいちいち歌にするような神はいたでしょうか?ジャニーズもそうですが、よく考えると同じ歌手が次々とラブソングを歌っていくということは次々と恋人を取り換えひっかえしていて(歌詞の上でのことなので気にするな!と言われればそうですが)そこに真の愛の賛美が果たしてあるのか疑問です。

演奏者が神の力を借りて演奏していると考えるのはどうでしょう。確かに60年─80年前半は神がかった演奏者が超人的な能力で演奏していました。しかし80年代から電子楽器が優勢になり、今は演奏者はボーカル以外全くいないものがあります、というか制作費と契約上のゴタゴタを抑えるためほとんどそれです。もうボーカロイドを使えばボーカルも要りません。

なお、2000年くらいまでは商業音楽は、テクニック重視からテクニックは要らない単純に!そしてまたテクニック重視へ、という循環を10~15年周期でやっていましたが、2000年からは単純化がずっと優勢で、ギターソロも要らないという極端な感覚が定着しています。

これらを見ていくと、商業音楽は最初から、絵画や彫刻で脈々と受け継がれてきた、作品には神が宿るという哲学は存在しないのではないでしょうか。作品には製作者の魂が宿っている、と言ったほうがほとんどの方が納得するでしょう。

それでも、アート・テイタムの鬼の速さと正確なピアノとかジョー・パスのヴァーチュオッソとかランディー・ローズ期のオジー・オズボーン二枚とか、クリームのライブとかイエスの危機とか聴くと、これは神がかっている!絶対に何か宿っていると思うアルバムもあります。

そこに宿っているのは神なのか、演奏者の魂なのか。聴く者みなそれを同じように感じ取れるのか、どういうメカニズムでそれを感じ取れるのか、そういうことを考え始めると美学が面白くなります。

その美学の面白さの最初の入り口がカントです。毎日同じ生活したつまらない人というイメージしか高校では習いませんが・・・次回はカントの話をします。

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美学編 その3 作品の美は善に通じる

前回制作者についてはそれほど美学では重要視されない、というのも特に西洋絵画は画商や貴族の間で売り買いされる間に製作者の手を遠く離れて行ってしまい、製作者の生い立ちや生活状況、思想はあまり気にならなくなるからだという話をしました。

現代はずいぶん違っていて、製作者の生活の全て、発言や思想のすべてまで知りたいファンが多いわけですが、昔はそれができなかったわけです。

なので作品から美を感じるしかありません。まあ、製作者自身がヘヴィーメタルで言えばランディー・ローズのような神々しさを持っていればその存在自体に美を感じたくなりますが、通常は作品があればもう十分良いわけです。

この作品の美をどう定義するかというのは美学の古典と今風とを分ける良い分岐点になっています。キリスト教の影響が強い時代には、美とは善と同一であり、それは神の国と同じもの、あるいは神の徳と同じである、という考え方が強いです。プラトンに始まり、シャフツベリ伯爵(第3代アントニー・アシュリー=クーパー(1671年 – 1713年))はまさにそう考えていました。ちなみにシャフツベリと日本では呼ばれていますがそれは人物名ではなく、伯爵のタイトル(宮城県知事みたいな・・・)で、彼の名前としては、アントニー・アシュリー=クーパーです。

カント(1724-1804)が古典的美学と今風美学との分岐点となっていて、カントは美を感じるということは観る人と作品との間の知的なインターアクションによる遊び、と考えました。それでも美自体は善や徳と同じであるという考えは捨てられませんでした。

古典的考えでは神々しい彫像などに限らず、郊外の自然を描いたような画であっても自然は神が作った美しいものなのだからそれを描いた画には美が表現されいる、神が善でないものを自然の中に創造するはずはないので、自然の美は善である、という考えが支配的でした。

この考えに従うと、不自然な人工物を描いたりすれば、それは善ではないし美ではないということになります。幸い、作品の発注者である当時のお金持ちは美しい画や彫刻を見たいので、不自然なものをあえて作るほど暇で労力を無駄にする画家や彫刻家はいませんでした。

この神が善でないものを作るはずはないので、名画や名彫刻は美=善という性質を持つという考え方は現代までもかなりしつこく残ったようです。

ですので酒場に出入りする人物たちをありありと描いたロートレックは当時高い評価を得られませんでしたし、デュシャンが普通のトイレの便器を『泉』として展覧会に出したときは天地をひっくり返したような騒ぎになるわけです。

果たして酒場に現れる娼婦やダンサーが美であり善の存在か?ただのトイレの便器が美であり善なのか?彼らは神が作った物なのか?神の善は一体どこに表現されているのか?

というどうしても破ることのできない固定観念との闘いが、葛藤が西洋人鑑賞者の魂レベルであるわけです。信仰のレベルともちょっと違う、まさに生まれつきの魂のレベルのように思います。

日本は鳥獣戯画など楽しく書いてそれを美しいと思いますし、江戸時代は見るのがちょっと恥ずかしいですが春画もありました。中国にも春画のジャンルがあります。そもそも東洋人は滝に登る鯉の墨絵を見て美しいと思ってしまいます。猫や鶏も墨絵で書くとかわいいですね。

このあたり、美学とはなんだろうと考える際に西洋人の感覚を理解してあげないと、何で西洋画は人物画だの動きのない郊外の風景画だの果物の画だのばっかりなんだろう、などと無用な詮索をしてしまいます。

そしてこの背景の理解がないと、カントから現代へとつながる美学の流れ、鑑賞者と社会に焦点を当てた美学理論の進化を理解ができないことになります。

ではまた次回。



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美学編 その2 え?美学では製作者は無視なの?

美学の世界では今一つ制作者に対する考察が弱いです。と言うより伝統的に無いです、と言っても良いかもしれません。

これは意外です。なぜなら現代アートにしてもポピュラー音楽にしても誰がどうやって制作したかの情報がネットで見れますし、著名な方であれば雑誌に記事として出てきます。熱心なファンなら製作者の生年月日や家族構成、影響を受けた先人や先輩の名前、好きな食べ物まで!知っていることでしょう。

実際、作品よりも制作者の名前の方が有名なアート作品や音楽が多数あります。坂本龍一氏と言えばみんな知っていますが、彼の音楽となると途端にうーん、YMO?ラストエンペラー?それ以外思い浮かばないな─という人が多いと思います。

ちなみに私は『未来派野郎』という80年代中ごろに出たアルバムが大好きで、一種私の音楽制作の目標にもなっています。

ということで今は制作者の方が作品より有名!!だったりしますが、少し前はこうではなかったのです。

例えばフェルメールです。フェルメールの絵は何点かパッと思い浮かぶ方も多いでしょう。美術史的に彼の『真珠の耳飾りの少女』の絵を紹介しない教科書などないでしょう。しかしフェルメールがどんな人だったかは謎の時代が長くありました。最近ではかなり発掘され明らかになっていますが。

これは特に西洋美術では仕方がないのです。少し前は画商を通じて絵は販売されていました。画商の知り合いがいなければ絵は売れませんでした!一端画商の手に渡ると、その絵はどこに運ばれていくか、製作者のアトリエからはるかに離れた異国の貴族宅に持ち込まれるのも普通です。

そうなると制作者の生涯についてなどまったく知りようがない人たちがそれを手にすることになります。画商が制作者はこんなこんな人でと説明でもつけてくれればいいですが、大体画家は貧乏でそんな貧乏な人の人生を聞いても絵を買うお金持ちには何の意味もないことでしょう。

ダヴィンチの様にまれに自分で自分のことや美術についての意見をせっせと書き残す人もいないわけではありませんが、多くの制作者は製作が忙しく、そんな自分の情報を書き残すことなどなかったのです。

ギリギリで宮廷に雇われているような画家や音楽家はある程度の生涯の様子が残されていますが、それでも貴族は自分の生活に忙しいのであって、いい絵さえ描いてくれればもうそれでいいのです。

ということで、製作者については美学はテーマとしては考えていないというよりは、考えるほど情報がなかった、ということになるでしょう。

小林秀雄は、昭和後半に高校や大学受験をした方にとっては苦手科目かもしれませんが、『私の人生観』という本で、彼の美学に対する考えを披露していて、美学の考察としては珍しく製作者に焦点を当てています。

それを簡単にまとめると制作者は対象(花でも花瓶でも)を「観る」ことで視野と意識が拡大し、それを宮本武蔵!のような実践主義に基づき物の形にする、というものです。

彼は「観る」と「見る」とを分けていて、製作者の意識は観ることで自然のありのままの姿から拡大していくので、その作品を見る人も観る意識を持って製作者の拡大した意識に近づくことが美術作品に接する方法だとしています。

制作者はそのように深く観ることができるので、作品は自然の模倣ではなく、それを観る者に宮本武蔵のような!共通の認識を与えるべきものとしています。

私は宮本武蔵の例はあまりいい例とは思わなかったのでそれはさておき、名画や良い音楽を聴いたとき、異なる個人が共通した良い気持ちを得るのはなぜだろうというのは美学の大きなテーマです。自然を模倣したのではない、それを超越する何かに深みのある価値や畏敬の念を感じる。そういう作品を作りたいと巨匠たちは意識してか、無意識的にか思っていたことでしょう。

カントもこの鑑賞者が共通して得る感覚について考察しています。

小林はこの自然を超える気持ちは物を作れば誰でも感じる、たどり着ける境地だと考えていて、理論のための理論になっているような哲学や美学、文学評論を否定しています。

まずは物を作ってみろ。

この本は昭和23年の講演を書き起こしたかなり古いものでここで言われていることは当時は奇妙な事だったかもしれません。物を作るのは当たり前の時代でした。地方では生活に必要なもの、ほうきやざるなどは手製で何度も直して使ったもので、物を作るよりそれについて論じる方が高尚だと思われていたに違いありません。

しかし現代ではアートセラピーというものが比較的普通になっていて、障害のある方や心の健康を損ねている方たちが、物を作ったり、鑑賞することで意識や感覚、身体的能力までもが拡張されることは普通に認識されてます。

他の人の意識と自分がつながることができ、その分自分の意識が拡張していくという意味で、作品には物凄いパワーがあるのかもしれません。特に自然を拡張した視点で観る製作者とつながれれば、鑑賞者にもその拡張した視点が自然と芽生えるのかもしれません。

このように自分の意識は自分の意識だけでできているのではないという考えはサルトルやハイデッガーのいう「相互主観性」というものに通じていきます。サルトルハイデッガーはまた別の機会に取り上げます。

サルトルの本は坂本図書にも置いてありました。

情報不足のため制作者について考えることが西洋美学では不可能でしたが、他者なしで自分の存在は無いという現代的な視点から行くと、製作者がどんな人となりであったのかもっと考慮されても良いのかもしれませんね。

とは言っても製作者の名前は知っていても作品は知らないという今の逆転した風潮もどうかと思いますが・・・

※自分のブログはやっぱり自由度が高くていろいろできていいですね!

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美学編その1現代美学の論点はこんなところ

坂本教授が生前所有していた本の多くが哲学書でした。その中で何冊か美学に関する物がありました。その多くの本が80年代のポストモダンの哲学書や美学書でした。

私は80年代に大学で哲学科の美学を専攻したので、彼の所蔵して愛読しただろう本を直接触れたのが嬉しかったですね。

という体験から、美学を音楽について当てはめて話す人が非常に少ないので、自分がしようということになりました。

それで今回はちょっと私の卒業論文の恥ずかしい話を含めて、現代美学は何を論じているのかを私が知っている限りで分かりやすく書こうと思います。美術をやる人は多いですが、哲学の一ジャンルである美学をする人はほとんどいないと思うので、とってもわかりやすい例を入れようと思います。

※※

美学がフォーカスする論点は意外に狭く、以下の物が中心です。

1.神の世界や天上界のような理想的な美が存在する世界と作品の関係
2.作品とそれを受容する’(見たり聞いたり読んだりする)人の関係
3.受容する人と社会の関係

意外にも、作者のことはそれほど中心ではない扱いをされることが多いです。また、理想的な美の世界と社会の関係も古い時代には密接に考えられましたが、現在では宗教的熱烈な信仰が社会で薄まって両者のつながりが弱くなっています。

今日は美学の原点とも言える、理想的な美の世界と作品の関係の話をします。

※※
全号でも書きましたが「理想的な美の世界が天井にあって、そこからインスピレーションが作者に与えられ、作者がそれを具体的な形にしてあなたに見せてくれるからあなたは感動する」という話を聞いてふむふむ、その通りだ!と思ったあなたは中世の修道士のような人間です(笑)。プラトン(紀元前427年-紀元前347年)やアウグスティヌス(354年-430年)はそういうように考えていました。きっと美の源泉のような別世界があって、そこから作品に美の要素が写し込まれているのだろう、と。

この考えは西洋の教会至上主義とも相まって長らくチャレンジされませんでした。トマス・アクィナス(1225年頃-1274年3月7日)は作品に映し出された天上の美が無条件に誰でも美しいと思われるわけではなく、受容者側に美を認識する能力や知力が必要だと説いて、美を美と思う理由をもう少し受容者側に近づいてくれましたが、それでも天上界に美が存在することは否定しませんでした(宗教上できなかった)。

美が美であると受容者が思う理由をもっと受容者側に近づけたのはカントです。カントについてはまた別途書くとして、この天上界から美が降りてくるという考えを少し冷静に常識的に考えてみるといくつか問題があるのが分かります。

一番大きな問題は工芸や工業製品も含めて芸術作品にはしょっちゅう革新的なこれまで存在しないものが現れるところです。こういうことが起きるにはまず天上界でイノベーションが起こり、続いてそれが下界に降りてくるという時差が必要です。

もしそうだとすると、ヘビーメタル、とくにイギリスが発祥のアイアンメイデンなどのNWOHMは、ハードロックの様式美にパンクの荒々しさを足したような新しいジャンルとして1979年頃からメジャーで出始めましたが、天上界にヘビメタの神様が突如現れたのでしょうか?

時間的に地上より先に現れてくれないと困るのではないでしょうか?

オジー・オズボーンの初代ギタリストだった天使のような美しいルックスで悪魔のようにおどろおどろしいギターを弾くランディー・ローズは1982年に亡くなりましたが、彼が最初のヘビメタの神様のような気がします。次はコージー・パウエル(1998年没)でしょうか。彼が亡くなったのはヘビメタが登場してから大分後です。時代が合いません!それとも天上界には時間の前後などなく、1979年の時点でランディーやコージーの生き神さまが地上にヘビメタの様式美を作り出すように指令を出していたのでしょうか?

もう一つ現代人としては真面目に議論するのがどうかと思えても、中世の人々にとっては非常に大事なことだったのが、作り手はビジョン(幻視)を見たのかどうかということです。つまり神が現れてその世界を作り手に視覚的にあるいは言語や音楽で示してくれたのか、ということです。

トマス・アクィナスは見たと言っていますが、画家にしても彫刻家にしてもビジョンを見たという人は多くないようです。中世では修道女で独特のミサ曲を作ったヒルデガルト・フォン・ビンゲンや神曲のダンテがいるといえばいますが・・・

それでも様々な「感覚」やインスピレーションレベルで天上界を感じたということは芸術家は言いたければ言えたのかもしれませんが、あまりそういうホラを吹く芸術家はいないようです(ウソの告白をすると当時査問され処断される可能性があったため)。

では芸術作品の源泉はどこにあるのか?天上界からインスピレーションやビジョンが降りてくることはまったくないのでしょうか。

絶対ないとも言いにくいので、アドルノ(1903-1969)はとりあえずこの話題には触れないことにしました。私も作曲するとき、朝起きる直前の夢の中でメロディーが鳴って朝起きたときそれを口ずさんでいて面白いと思ったのを手元に置いてあるICレコーダーで録音したりします。これは何度もあります。

また自転車に乗っていると鼻歌で新しいメロディーができたりします。しかもバックバンドの音まで付いて頭の中で聞こえます。これも何度もあります。私の作曲は大体このどちらかで作ったもので、楽器を持ってああしようかこうしようかということは録音のときはアレンジのためにすることもありますがメロディーを考え付くときはほぼありません。

こういう、最初からいつのまにか出きていた作品は神様が下ろしてくれているのではないでしょうか。作り手としてはそう思いたいくなる体験が余りにも多くあります。

ということでこの問題は天上界については直接触れないというのが現代美学的アプローチです(笑)。明確に一部マルクス主義に基づく美学者は存在を否定しているようにも思えますが、宗教が人々の生活でそれほど大きな使命を持たない現代社会では、あまりその方面を論じても有益な美の論ができない、人々にそういう個人的体験と信念体系がないのだから、という判断もあるかもしれません。

さて私の恥ずかしい体験を今号で書こうと思ったのですが、それは次の受容者のことに主にかかわるので、次回に回すことにします。

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私の音楽雑感
菅井英明

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美学の話を開始します

坂本龍一氏が生前所有していた図書を公開している「坂本図書」を25年三月訪問しました。氏の所有する蔵書の多くが私が80年代に読んだりタイトルだけは知っている哲学書や美学の本だったことに刺激を受けました。私も大学では哲学科美学専攻だったのです。

しかし中々音楽に没頭していた大学時代に哲学書を何冊も読みこなすことはできず、慌てて書いた卒論に必要な物しか読めなかったことが残念です。

またその卒論は盛り込むべき先人の視点を入れられなかったせいかあまりいい成績ではなかったのですが、着目した問題点は優れていたと自負していて、結局その延長でハワイ大学マノア校でニューラルネットワークの研究をすることになりました。なので、もう一度しっかり先人たちを読み直したいと常々思っていました。

坂本図書に刺激を受けて、戻って来てからメルマガスタンドのまぐまぐにて美学の読書のやり直しも兼ねて美学の話題で連載を始めていました。知らなかったのですが、2019年頃からまぐまぐはバックナンバーを見せないようになっていました。二週前の号をご覧ください、のようなことが簡単に言えなくなっていました。

これだといろんな意味で扱いにくいので、まぐまぐから撤退することにしました。私はまぐまぐの最初期におそらく一番最初のネット小説をまぐまぐで書いた人物でまぐまぐにはとても愛着があるのですが、とても残念です。

そこでこの数週間書いた部分をこちらに再掲するとともに、これからできる限り毎週一度美学についての記事を掲載していくことにします。

日本語の原型はペルシア語と呉越の通訳者が造った人工的な翻訳語である

菅井英明

本記事の内容を結論から急いで書くと、タイトルで書いたようになる。日本語の原型はペルシア語と呉越の通訳者が造った人工的な翻訳語である。

そう考えられる理由の詳細は後の記事で追加することにする。現在、中東で大規模な戦争が起こる可能性があり、遺跡や碑文が大量に失われる可能性がある。そうなる前に、とりあえず骨子だけは緊急に記しておきたい。

ペルシアとの時代的背景

ペルシア語は印欧語であり、その中でインドーペルシアンと呼ばれるサブグループに属する。一番近いのがサンスクリットであるが、ペルシア語自体が「アヴェスタ」と呼ばれるかなり古い経典があるため、古い形を再現することができる。

日本語と関係があるのはアヴェスタの時代ではなく、弥生時代の紀元前200年ー飛鳥時代ではないかと考える。

シルクロードと言うと砂漠の陸路を想い出すが、確かにその経路も古代からあって、中国の山東省のLinziで約2500年前の漢代の遺跡からは欧州人の人骨が多数発見されている(植田 2009)。

海のシルクロードというのもあって、縄文時代にすでに黒潮(暖流)を使って縄文人は伊豆諸島から自由に太平洋上を移動できた。

三万年前に台湾から与那国島に丸木舟で来られたかを丸木舟を作って実験した結果ではきちんと与那国島に到着できることが立証されている(Science Portal 研究は日本の科学博物館の海部陽介による)。

縄文時代はもっと航海の技術が進んでいるはずで、沖縄諸島から台湾あるいは江南、ベトナム、フィリピンに黒潮を利用して点々と泊まりながら行くのは容易だったろう。

黒潮は季節によって逆向きに流れるので、それに乗ってカツオは日本の西日本と東北を行ったり来たりする。江南や与那国島から日本に戻ってくるのも難しくなかっただろう。

弥生時代になると、大陸の呉越の民と倭人は福建省、広東省からベトナムに貿易港を多数持っていたと考えられる。

当時倭人は百越と呼ばれる中国南部に住む100の部族の一つと中国の歴史書の研究からみなされている(鳥越 憲三郎説)。彼らは揚子江下流、江南やベトナムに拠点を持ち、本国の日本との貿易を担っていったのであろう。

ここには倭人や渤海の商人だけでなく、フィリピンやタイ、インドを経由して様々な国の貿易商が結集していたと考えられる。山東省の沿岸部に漢代に欧州人が進出しているのであるから、中国沿岸部の主要な港にはどこでも多くの欧州人がいたであろう。

現在の日本語の原型はこのような他民族との交易のための言語として生まれたのである。

他言語との比較

その中でもある時代のペルシア語との関係が考えられるのは、機能語が日本語にそっくりだからである。ペルシア語を紹介する前に簡単にある言語と他言語との比較はどのように行われるかを記そう。

比較言語学では200あるいは400の基礎語彙を比較して、まず二言語間で意味がほぼ同じで形が似ている語を比較する。これらは共通の親から出てきた子どもたちであり、同根語(cognates)と呼ばれる。

基礎語彙には数字や親族、自然といった、どの民族でも使うだろう語いが選ばれていて、文化的な道具や思想・哲学に関するものは、「借用」と言って、文化流入のせいで同じものを使うようになった可能性が高いので排除する。また動詞や形容詞よりも名詞が多い。動詞や形容詞はその状況から人類が普遍的に感じるものがそのまま音になることがあり、人類の普遍性による共通語を排除したいからである。

二言語間あるいは多数言語間の同一の親を祖語と呼ぶ。道具や思想の名詞、普遍性による形容詞や動詞を排除しても、祖語が同じであれば音の形態が似ている同根語がいくらでも見つかる。

しかし日本語の場合、どの近隣語でも同根語が見つからない。近隣は諦めて、はるか遠くに求めても見つからない。様々な言語から数個は疑わしいものが見つかるが、例えばサンスクリットとペルシア語のようにぞろぞろそっくりなものが見つかるわけではない。

そのため、基礎語彙は諦めて、語順に着目する研究者が多い。そうすると<主語ー目的語ー動詞>という並びから朝鮮語、モンゴル語、トルコ語、ビルマ語と似ているとなるが、同根語が見つからない言語間で親族関係を認めることはできないので、日本語は親族がいない「孤立語」であるというのが、言い方は悪いかもしれないが「正統な」言語学研究の結果である。

遺伝子研究からの方向性

このように親族が見当たらないため、日本ではこの比較言語学といわれる分野が遅れに遅れてしまった。研究者もほとんどいないのである。そのため、基本的なトレーニングを受けていない研究者があの言語に似ている、似ていないと言い始め、特に朝鮮語やモンゴル語と似ていると信じてやまない者は多い。

それを打破する方向性が遺伝子研究のほうから出てきている。民族間の遺伝子の比較は既に終了の段階に近づいている。その結果分かったのが、女性にだけ遺伝するミトコンドリアの形質から、日本人の多くは、揚子江南部やベトナム海岸に多く見られる遺伝子を持ち、男性はY染色体の比較から、もっと広範囲に中東、イタリア、インド南部、チベットに同一の遺伝子を持つ民族がいることが分かった。

遺伝子による比較研究を歴史的な民族の拡散の研究に応用することについては、いくつか注意すべき点はあるのだがそれはまた別記事で記すことにして、女性の方の研究はイネの遺伝子の研究結果と一致している。稲作を持ち込んだのは長らく誤って信じられていた朝鮮半島の人々ではなく、中国の南部、あるいはベトナムの沿岸部の女性だったのである。

そして男性もみんながみんな朝鮮半島から馬に乗ってやってきたわけではなく、アフリカを出た後、中東を通り、インドの南部を周り、船でおそらくフィリピン、インドネシアにたどり着きそこで休憩し、そこからベトナムや呉越に昇り、おそらくそこで倭人や呉越の女性をたくさん乗せて黒潮に乗って一緒に日本にたどり着いたのである。

一部は厳しい山岳地帯の北回りでチベットの方を通って日本を目指したが、成功した者もいるだろうが、他民族に阻まれ多くは日本にたどり着けなかったのかもしれない。そのため遺伝子も向こうに取り残されたのである。

このように遺伝子研究が日本人のルーツを次々と明らかにしているのに、言語学の方は何ら進展がない。比較言語学の基本を飛ばして朝鮮半島と中国から文物は来たという昭和史観にいつまでも囚われているからであろう。

朝鮮半島と日本の間には対馬海流が流れている。また別記事で詳しく書くが、西から東へ流れる海流の流れが丸木舟で焦げるスピードより早く、釜山を漕ぎ出すと、東に流され、日本海の何の島もないところに流される。そのため朝鮮半島から直接日本には来ることが ほぼ できなかった。もしできるのであれば遣隋使、遣唐使も対馬を往来するが、その時代であっても朝鮮半島との往来で何度も失敗し、確実だったのは黒潮に乗って南を行き来するルートだった。

後の時代に山田長政がタイのアユタヤに日本人村を作ったり、インドネシアのスマトラ島が東西の交易の要所になっているのもこうした海のシルクロードが発展していったものである。

大野晋とグリーンバーグ

言語学の世界で二つだけ、遺伝子研究の結果と矛盾しない研究が出ている。一つが90年代に一般書籍化された大野晋のドラヴィダ語説である。ドラヴィダ語はインドの南部で話されている。この書籍が出た当時、大野氏の説はほとんど荒唐無稽な説と思われていた。また大野氏が正式な比較言語学の手順を知らないため、基礎語彙の比較をしていなかったり、単に語頭の音が同じで語の形が似ているペアを同根語のつもりで並べたりするだけで、それ以上の説得力がなかった。

それ以上に進むには、なぜ言語Aの音が言語Bでは別の音に代わるのか、自然な音変化のルールを規則的に見つけなければならず、それは語頭の音だけでなく、語中、語末、すべての場所の音でである。

しかしそれには正当なトレーニングを受ける必要があることと、膨大な時間がかかる。そのため最初にすることはやはり基礎語彙200か400の比較であり、大野氏はこれを飛ばしてしまった。おそらく見つからないのであろう。

もう一つはジョセフグリーンバーグの説で、日本語、アイヌ語、朝鮮語は他の周辺言語と一つのグループを作り、それが印欧語と結びつくという説である。これも90年代にアメリカの大衆科学雑誌に掲載されて話題を呼んだが、ほとんど正当な比較言語学の手法を無視した説である。そもそもアイヌ語も孤立語とされていて、日本語との同根語が余り見つからない。同じ音と意味のペアになる物の多くは道具の名前であり、東北地方の日本語からの借用である。そのように似ていない言語をいくら集めても、地理的に近いという特徴しかなく、共通の祖語を持っているわけではないのである。

ペルシア語の立ち位置

簡潔に書こうと思っていた本記事だが、やはり前置きがないと何のことか分からないので、前置きを書いた。日本には比較言語学を知っている言語学者はほとんどいない。私はハワイ大学マノア校博士課程で比較言語学のトレーニングを受け、マラヨ・ポリネシアン(のちのオーストロネシアン)語族の研究をされている教授陣の元、日本語の可能性について、オーストロネシアンやLISUという中国南部、ベトナムに住む少数民族、そしてチャムというカンボジアに住むムスリムの民族との比較を試みた。しかし、予想通り、同根語がそれほど見つからないのである。

その後、日本語教育に転向したのでしばらく考察する機会がなかったのであるが、遺伝子研究が描く、男性は船で南インドから来て、途中ベトナム江南で女性を拾って日本にたどり着いた日本人成立の設計図が事実とすれば、言語研究も先に進めると考え、グリーンバーグの説を掘り下げるのがもっとも答えに近いと考えるようになった。

というのも海のシルクロードが弥生時代には完成していたならば、南インドに中東から航海できるのは、アラブ・ヘブライと一部アフリカ言語のセミティック民族か、後にペルシアを築く印欧語族のアーリア人しかいないだろうということと、もし南インドから更にインドネシア、フィリピン、南中国にいくなら各所に通訳翻訳者がいて、彼らは自分たちの言葉をベースにした共通翻訳語をリングアフランカとして使うだろうと想定できるからである。

あまり言い方は良くないが、現代的に言えば各国の移住斡旋者がこうした港にはたくさんいて、複数の言語を操り、簡略化した言語で異なる民族間同士で意思疎通をしていたはずである。

そのように考えると万葉集に現れるころの日本語の中に、そうした通訳者が使っていた言葉が残っているのは普通に考えられることである。

その足掛かりとして目をつけたのが、現代の印欧語の分布では最東端となるペルシア語である。

念のため書くと、ペルシア王国は前634年には存在が確認されている。弥生時代の始まりは教科書に載っている昭和史観とは違って、現在では前900年ころとされている。その頃はペルシアはまだなく、同じアーリア人であるメディア人がイラン高原に定住し、やはり同じアーリア人であるスキタイ人などが遊牧を行って生活している。

本記事ではメディア人やスキタイ人が活躍した地理的空間を便宜的にペルシアとする。アーリア人としてしまうとほかの印欧語族のことも思い浮かべてしまうためである。

ペルシア語との比較

比較に適するのは万葉集程度の時代のペルシア語である。同一の時代はササーン朝ペルシアの時代(224-651)でそこで話されていたのはミドル・ペルシアンと呼ばれるものである。これは現代使われているニュー・ペルシアンにより近い。これより古いペルシア語はオールド・ペルシアンと呼ばれて、よりサンスクリット語に近い。オールドからミドル・ペルシアンになるときにサンスクリット語が持っていたような複雑な文法のほとんどが無くなった。

現代語であるニュー・ペルシアンは、8世紀にはでき上っていたと考えられる。記紀の時代である。イスラムが到達したため大量のアラビア語が流入するが、文法的には現代ペルシア語と同じである。一般的なイラン語の教科書では、イラン高原は交易の要所であり、多数の民族と交易する中でドンドン言語を簡略化したのだと記されている(浜畑 p.10)。具体的にどの言語と接したからどの文法が消滅したかの研究が待たれるところである。。

本記事では日本語古語、方言とをニュー・ペルシアンと比較する。また中国南部やベトナムで通訳の間に入ったと思われる呉越の子孫である広東語、福建語も必要な時紹介する

基礎語彙においては同根語と思えるものは多くはない。しかし興味深いものがある。

ぺ  日  広  福

yek ichi yat jit “one”

se san saam sa “three”

dah too sap zap “ten”

数字の1と3はこの四言語で非常に似ている。ちなみにサンスクリットとオールド・ペルシアンと印欧語祖語では、

サ  オ・ペ 印欧

eka- aeeva óynos ”One”

trīṇi θrayō tréyes ”three” dáśa dasa déḱm̥t “ten”

参照 Indo-European vocabulary, Wikipedia

日本語には他に「ひふみ・・・」と数える数字があるから、「いちにさん・・・とお」と数えるのは中国語からの借用であると一般的には考えられるが、ペルシア語の一が日本語と中国南部方言と同じだったり、十が日本語と同じだったりするのはどういうことであろう。形が似ているサンスクリットや印欧祖語を捨ててまで・・・考えられるのは三者が交易目的で同じ場所で接触をしていたということである。

機能語の著しい相似

形態的にも用法的にも以下のペルシア語の機能語が日本語に相似である。

①動詞の否定

動詞を否定するにはna-を動詞の前につける。

日本語 動詞+ない

➁まだ完了していない動作、状況を表す動詞にはmi-を語幹につけて現在形を作る

日本語 未 (未完成)

➂特定の目的語をフォーカスする際にlaをその名詞の後につける

日本語共通語には目的語「を」をフォーカスする助詞はないが、東北の宮城方言では「ば」を目的語の後につける。

あいづば学級委員にすっぺ 「彼を(彼出ないとダメ)学級委員にしよう」

④文で名詞を修飾するには間にkeを入れる。

日本語は修飾文が直接名詞にかかるが、制限的な用法として古語から「が」がある。「が」の後は名詞か形用表現が来る。文は通常「が」の後は来ない。

いばらの道を歩むが男の道/いばらの道を歩むがよい

?いばらの道を歩むが田中が目指していることだ

名詞と名詞をつなげるにはエザーフェと呼ばれるe(またはyとeの組み合わせ)を入れる。日本語は「の」であるが、広東語、福建語が興味深い。

㊄名詞の名詞に当たるe(エザーフェ)

ぺ 日 広 福

e no ge ee

広東語のgeも福建語のeeも修飾文と名詞をつなぐことができる。

⑥勧誘のbe-

一人称複数形の前にbe-をつけると勧誘になる。東日本では誘いの意味で動詞後に「べ」をつける。

図書館さ行くべ 「図書館に行こう」

㊆比較には形容詞の後にtarを付ける。最上級にはtariinを形容詞の後に付ける。

日本語では名詞の後に「より」を付ける。用言や文の後に付くこともある。

また、「足る」には「数、量が十分である。満ち溢れている」(p.553「講談社古語辞典」)という意味がある。

⑧名詞に-iを付けると形容詞を作ることができる

日本語は逆に「い」で終わる形容詞に「さ」をつけると名詞になると考えられているが、方向性が逆かもしれない。

大きさ(名詞)→大きい(形容詞)

古語では「おほきさ」(古事記)も「おほき」(古事記)も存在している。 (p.174「講談社古語辞典」)

㊈ペルシア語は基本的な動作を表す動詞であっても単独の語幹が無いものが多く、名詞や形容詞に”kardan”「する」”shodan”「なる」を付けて複合動詞としてあらわされる。

日本語では現代語は「勉強する」のように「する」を使い、古語では「す」が「漢語などについて複合動詞を構成することがある」( p.469「講談社古語辞典」)

⑩叙述文の現在三人称単数はastである

このastは印欧語祖語”hes”から来ている。 古英語の”is”である。 日本語の叙述は「す」が使われ、「ある状態・気持がある」 ( p.469「講談社古語辞典」)という意味である 。これはあまり数多くはない中での希少な日本語と印欧語との直接の同根語と考えられる。

⑪移動の目的地は前置詞beで表す

前置詞beは「~に、~へ、~で(手段や道具の「で」)」の意味があり、移動の目的地を指し、日本語の「へ」と同じである。

今後の調査

機能語について簡潔に見るだけでこれほどの音の形態と意味と機能が合致する機能語がペルシア語と日本語に存在する。従来のようなモンゴル語や朝鮮語と似ているという話は、文法的な機能が同じなだけで、音の形態が同じものを見出すことはできない場合がほとんどである。

中には中国南部方言と同様の音の形態と機能を持つ機能語が見つかることから、更に中国南部方言の基礎単語や道具や文化、制度を含む借用語についても比較検討したい。また従来日本語古語を知っている研究者は日本語学者や文学者であって、比較言語学のトレーニングを受けてなかったので、多言語との比較研究に参入できなかったが、このように南中国で印欧語と中国語方言そして倭人の日本語古語が接触していたと考えると日本語古語研究者が参入できる可能性が大幅に広がる。交易には商品は当然であるが、仏典や仏具、哲学なども時代的に含まれていた可能性があり、この方面の研究も大いに期待できる。

なお、本時期では便宜上ペルシア王国のペルシア人が交易をおこなっていたように記述してきたが、インド西岸にいたのは同じアーリア人のサカ人と呼ばれる元はイラン平原にいたが南下してそのままインド西岸に定着した部族である。彼らは仏教に帰依し、積極的に布教もしていたようで、ペルシア湾岸とフィリピン・インドネシアをつなぐ交易の主体はこのサカ人(サカは「鹿」という意味であり鹿を崇拝していた可能性がある(青木 p.35-36))だった可能性が高い。

今後は海のシルクロードとその担い手たちとその拠点に焦点を合わせることで、倭人がどのように日本語を形成していったかの詳細がよりはっきり見えてくると信じる。

なおこの記事は緊急性を重要視して、ペルシア語の例文などを記さなかったが徐々に付け加えていくつもりである。

参考文献

青木健『アーリア人』2009 講談社選書メチエ

植田信太郎 2009「古代中国人類集団の遺伝的多様性とその変遷ならびに生活史の解明

佐伯梅友・馬淵和夫編  1969 『古語辞典』講談社

浜畑祐子 2018 『ニューエクスプレス+ペルシア語 』 白水社

吉枝聡子 2011 『ペルシア語文法ハンドブック』白水社

Indo-European vocabulary Wikipedia 2024/08/05

Science Portal 『3万年前の航海、丸木舟で完遂 科学博物館チーム、台湾から沖縄・与那国島に到着

2024・8・5

日本語動詞終止形におけるrの機能と意味について

菅井英明

現代日本語の動詞の辞書形(終止形)は-ruで終わるものと、rがない-uで終わるものの二つのグループに分かれる。そのため日本語教育ではru-verb、u-verb(る動詞、う動詞)などと分けて、形の違いを教えるが、そのrのあるなしで意味の違いがあるとは教えず、ただ活用する際に形に違いが出るとしか教えていない。

しかしこれだけ体系的にそして広範囲に同一の形態素が存在するということは何らかの機能や意味が存在するはずである。本記事ではこの「r」には、話者に向かって対象の物が向かってくることを表す機能があることを確認し、そこから二次的な意味として再帰動詞的な意味にも使われることを検証する。

「r」のない動詞にはそうした対象が向かってくるという意味合いがない。話者のいる場所に密着していたり、 心の内面に 自発的に発現したり、 「r」とは逆に話者から離れたほうへ対象がいく場合に 「r」 のない動詞が使われる。

検証に使用する動詞は現代語を基本とするが、古語でもすでに「る動詞」は存在しており、現代語で 「r」 がついていてこの原理に該当しないように見える動詞も遡ると 「r」 は元々なかったものが多くある。そのようなものは物の移動に注目した類推が発達して 「r」 が現代語に付くようになったと考える。

なお、この形態素 「r」 の研究は今後日本語の起源を考える際に重要となる手掛かりとして多言語との比較考察をしなければならないものと考える。

「る動詞」と「う動詞」の意味の違い

「r」 の基本的な機能と意味は次のペアに見ることができる。

来る VS 行く

来るは何か物や対象が話者の方に向かってくるのである。行くは逆に対象が話者の方から向こうに行くのである。これが 「r」 のあるなしの原則的な意味の違いである。

このような意味を持つペアは無数にある。

取る VS 離す、逃がす

貼る VS はがす

着る VS 脱ぐ

釣る、吊る VS 落とす

切る VS 縫う、つなぐ

はねる VS 飛ぶ (油などが)

物が密着している場合

対象がこちらに向かってくるのではなく、すでに密着していたり、話者のいる場所に存在する場合は、 意味が対立するペアでも「r」 が使われない。次のペアは意味は対立するがいずれも対象のものが最初からすでに一点に密着している例である。

刺す VS 抜く (壁に釘が既にある) 

押す VS 離す (壁にスイッチが既にある)

密着している対象物でも外部の強固な無理やりの力により物が動くような場合は 「r」 がつく。

ひねる VS 回す (水道の栓を)

割る VS 崩す、ほぐす

削る VS はがす

心理的な状態のペア

心理的な状態で類似の意味に思えるが要因が外部から来るものと内面から自発的に起こるものとで異なっているペアが多い。

知る VS 学ぶ

考える VS 思う

憶える VS 思い出す

また内面から自発的に起こる感情には、 「r」 が付いてないが、それらの感情が起こる原因が外部から来ていることを示す場合は「使役」を使う。

悩む VS 悩まされる

喜ぶ VS 喜ばされる

泣く VS 泣かされる

苦しむ VS 苦しまされる

意味の対立するペアがない場合

意味の対立するペアが無くても上記のような外部の強い動きで物が運動すると 「r」 がつく。対立する意味を作るには受動態「られる」を用いる

殴る VS 殴られる

蹴る VS 蹴られる

など

再帰用法

動作をすることが自分の体や心に影響を及ぼす再帰用法が 「r」 にはある。 スペイン語 等の再帰動詞がある言語で見られる典型例が日本語でも「る動詞」に多く見られる。

起きる、寝る、眠る、剃る (ひげを)、着る(服を)、見る(鏡を)、滑る、倒れる

例外と思えるものについて

①古語では存在した対立が消滅した例

現代語においては 「r」 のあるなしが原則と合わず、おかしい動詞であっても多くは古語をみることで、原則に従っているのが分かるものが多い。

出る VS 入る

こちらに物が向かってくる入るは 「r」 があっていいのだが、出るは対象物が向こうに行くのだから「r」があるのはおかしいと思うが、古語では「いづ」(万葉集)であり、 当時「r」 は無かったのが現代語では物の移動の面が強調されて類推により 「r」 が付いたのであろう。

「投げる」も対象物が向こうに行くので 「r」 があるのはおかしいのだが、古語では「なぐ」(古今和歌集)であり、「いづ」と同じ理由で類推により 「r」 が付いてしまったと考える。

掘る VS 埋める

掘り出される土の出入りに着目すると両方に「r」 があるのはおかしい。埋めるの古語は「うむ」(宇津保物語)なので古語には 「r」 がなかったのだが、掘った穴がこちらに近づいてくるのが「掘る」で、埋めると穴が遠ざかっていくのが「埋める」と考えるのかもしれない。

売る VS 買う

物が出ていくのが売るで、物を手に入れるのが買うなので、まったく形式が逆転しているように思える。古語においても「売る」(古今和歌集)「かふ」(竹取物語)となっている。売買は物に注目したのではなく、交換することによって入ってくる貨幣に注目したものなのかもしれない。

➁再帰性があっても 「r」 がない動詞

「体を洗う」や「体を拭く」などはスペイン語などでは再帰動詞を用いるが、日本語では再起の形式になっていない。

「食べる」は元々「くふ」(源氏物語)なのだが、再帰の意味から 「r」 が付いたと考えられるが、「飲む」(万葉集)は 「r」 が付かなかった。東北方言では現在も「くう」なので、飲食については再帰性が当てはまらないのかもしれない。「吸う」「吐く」なども 「r」 がない。

日本語では対象物の移動の度合いに着目し、再帰の意味は二次的に派生したものなのであろう。 体を洗うや拭くは大きな移動を伴う動作と考えず、直接口に器を当てて食べたり飲んだり吸ったりする行為も何か物の移動があるとは思われなかったのかもしれない。

結語

以上、 動詞の終止形「r」についての検証を行った。 「r」 は対象物が話者の方向に向かってくる様子を表したものであり、その方向性がない動詞には 「r」 がつかない。そこから二次的に再帰の意味が生まれ、話者が自分の体や心に対して外部から影響を与える動作についても 「r」 が使われるようになった。

一方で対象物の方向性が逆であったり、密着していたりする 物や状況 、あるいは心理的な自発的に発現する感情には 「r」 はつかない。

「r」 が独立した機能語で あることが判明したおかげで、日本語祖語を探す際に同様の機能語を持つ言語との類似性を研究することができるようになり手掛かりが増えたのは喜ばしい。

2024/08/04

※古語の確認には1969佐伯梅友・馬淵和夫編「古語辞典」講談社を用いた。

※筆者は現在大学や研究機関に所属しておらず、詳細な文献検索ができないため、仮に類似の先行研究があった場合であってもそれらにはアクセスができず、本記事における内容は引用がない限りすべて独自の研究により導き出されたものであることをお断りしておきます。

神武天皇は実在した―地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第六回 ナガスネヒコは阿波出身者

今日はナガスネヒコです。ナガスネヒコは長脛彦などと漢字で書かれて、それはそれで石原裕次郎のような足の長い人だったんだな、とかっこいいイメージですが、古代は漢字はまだ意味を表さず、ただ音を表す当て字だったので、本当に足の長いかっこい男だったかは微妙です。

日本人のルーツと四国の状況

ナガスネヒコが何者かを考える際、日本人全体のルーツと四国にはどんなルーツの人々がいたかを考える必要があります。

誰でもご存知のように、日本には縄文人と弥生人がいました。縄文人の方は2万年前にはもう日本にいました。驚きですね。中国文明よりもはるかに古いのです。彼らは遺伝子的にはハプログループDというものに属していて、現在の日本人の35%の人がこの遺伝子を持っています。

ネットでは中国や朝鮮半島に多いと出てきたりしますが、嘘です、現在
Dが見つかるのは中東とアジアの辺境の地や諸島、そして日本しかありません。 チベット、インドのアンダマン諸島、フィリピンやグアムの一部、中央アジアやアフリカの北東部など、いかにも大陸の中央から追い出されたところに生き残っています。

元はアフリカを一番最初に出他グループなのでしょうが、後続するマレー系と漢人、他民族に押されて辺境に追いやられて、日本にも多数逃れてきたのでしょう。

弥生人はどんな遺伝子グループか

次の弥生人が曲者です。弥生人というまとまったグループがないのは最近の遺伝子研究からも明らかになっています。ここは詳しく書くと1記事軽く書けますので後ほど紹介します。今日は簡単に遺伝子のグループ名だけ書いておきます。遺伝子城異なるいくつかのグループが日本に到来したということだけ今日は知っておくとしましょう。

その一つは東南アジア・台湾から直接来たグループです(ハプログループO)。航海術に優れていて、東シナ海を縦横無尽に船で走り回りました。貿易も広く手掛けています。海が大好きで日本だけでなく、ハワイを通り越してイースター島まで行ってしまいました。

もう一つが中央アジアやアラブに多く、朝鮮半島や中国北方を経由してきた東アジア人のグループです(ハプログループC)。昔の小学校で習った帰化人のイメージはこのグループでしょうか。

今日の遺伝子の話はここで終りですが、四国にはどのような人たちがいたのかというと、元の縄文人(D)が住んでいたところに、わだつみの海の人たち(O)そして養蚕や縫製を得意とする呉越出身の(C)さらに稲作が好きな中国南部少数民族やラオス北部の人(O)が移住して住んでいました。

そんな簡単に日本に移住するな!と言いたいところですが、Oの人たちは貿易だけでなく、人間を運ぶ仕事もしていました。大陸で大きな紛争が起こるたびに、海辺に押し出された人たちは新天地を求めて、この日本に流れ着いたのです。 日本はハプログループDだけでなく、ありとあらゆる迫害・弾圧されている人にとって最後のユートピアだったのです。

黒潮に乗ると実に簡単に日本にたどり着くことを知っているわだつみの人たちは、それで一財産作って竜宮城という王宮まで作ったのです。

ナガスネヒコは長の国の王子

徳島では、海の人たちが作った国を「長国」(ながのくに)と呼び、養蚕やお米を作る人たち(天孫族)の国を阿波国と呼びました。最近新説として、美馬や池田町の方に第三の国があったという見解もあります。

長国は現在でも那賀町として今も名前が残っていますが、徳島の沿岸部および今の吉野川の河口あたりまで支配していました。延喜式に長郡、先代旧事本紀に長国と出てきます。

そしてこれは大国主の支配する国、出雲です。出雲は島根県ということに明治期にされてしまいましたが、出雲の風土記にスサノオも大国主も出てこないのは有名な話です。

出雲という名前につい反応してしまうかもしれませんが、長国は大国主とその子供コトシロヌシ(いわゆるえびす、えべっさん)の国で、阿南市にある式内社、八鉾神社(やほこじんじゃ。式内社)が総本山になります。

八鉾神社

この八鉾神社は非常に特別な神社で、陛下が代替わりされるとき、次の陛下が必ずお参りします。令和になる際も極秘で皇室の大事な方に参詣いただいたという噂があります。公式には今上天皇は皇太子だったころ平成三年に参詣されています。伊勢神宮などでもないのに、陛下が代替わりの際に来るなんて不思議ですね。

ここまで来ると勘のいい人はもう分かったでしょう。ナガスネヒコは長の国出身の重要人物なのです。

長の国の洲の根の王子

ナガスネヒコの名前は、この長の国の洲にルーツを持つ王子となります。根という字は、阿波倭論ではルーツを持つ、という意味になります。出生地を表しています。根のつく御子や陛下は多いので、どこの出身かよくわかります。

尊や彦の皆さんの名前は中二病でついているのではなく、ちゃんと出身や系譜を示すようにある時期まではつけられています。

それでナガスネヒコは徳島沿岸部の島の出身であることが分かります。徳島の鳴門のあたりは渦潮で航海がむずかしいですが、南に下がればまあまあ穏やかな海です。現代でも徳島市沖洲から和歌山の北部へ大型フェリーが出ています。徳島から大阪南部にある関西空港に行くのに便利なフェリーです。鳴門の渦潮の方などけっして行きません(笑)。

ナガスネヒコの一族は天孫族が大阪南部に移住するだいぶ前に大阪南部と和歌山北部に進出していたのです。

そしてナガスネヒコの父母の系譜は古事記にも出ていませんが、おそらく大国主なのでしょう。後から来たニギハヤヒにすぐ帰属して妹を差し出して親族関係になったのも、元々大国主の一族だから先祖がそうしたのと同じことをしたのでしょう。

ナガスネヒコの妹は登美夜毘売(とみやびめ)、あるいは三炊屋媛(みかしきやひめ)という名前で、やはり毘売となっていますから、立派な大国主系のお嬢さんだったのです。

ナガスネヒコの系譜が不明なのは物部氏の没落のせい

登美夜毘売(とみやびめ)はニギハヤヒと結婚してウマシマジを生みます。このウマシマジは物部氏の先祖になります。

物部氏が書いた先代旧事本紀では神武との闘いが詳しく書かれていますが、古事記ではあっさりと書かれています。ナガスネヒコが戦いに負けた後どうなったかも古事記では書かれていません。 先代旧事本紀ではどうしても考えを変えられなかったナガスネヒコをニギハヤヒがやむなく殺して戦争を終わらせたことになっています。

古事記ではなぜいろいろ省略されていて、 先代旧事本紀 では逆に悲しい結末がかかれているのでしょうか。ご存知の通り、物部氏は後に蘇我氏と対立し、勢力を削がれて弱体化してしまいました。朝敵とまではいかないものの、その後あまりパッとしなかった一族です。いろいろと表に出てくると困ると朝廷は思ったのでしょうか。

物部を逆賊と考えるなら古事記にナガスネヒコはニギハヤヒにやむなく殺されたと記述があってもいい気がします。物部氏の後裔が自分たちのルーツを隠すなら 先代旧事本紀 のほうこそあいまいな書き方がされてていい気がします。

逆になっているということはそれなりに、物部氏は蘇我氏にやられても権力を維持していたということでしょう。少なくとも古事記編纂の時期まではそうなのでしょう。それでナガスネヒコの最後を削除させたのかもしれません。

物部氏の後裔はナガスネヒコを殺されたことを恨んで 先代旧事本紀 にちゃんと書いた、ということなのでしょう。

さて、ここまで書いて結構長くなってしまったので、次回はナガスネヒコは生きていた!?んなアホな?という話を書きます。

前記事 神武天皇は実在した―地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第五回 鳴門の渦潮で苦労した神武天皇

神武天皇は実在した―地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第五回 鳴門の渦潮で苦労した神武天皇

色々な阿波神武説

神武天皇が阿波に実在したということを阿波倭論から考証しています。神武天皇は阿波に実在していましたが、東征については阿波倭論者の中に異なる考えがあります。

まず、一番「ええええー?」と思うのが、神武天皇はただ阿波の中で戦ったというものです。つまり彼は四国から出て行かなかったのです。この論者はさらに古事記に書かれていることは全て四国で起こったことだと考えています。

阿波倭論者の先駆者たちの多くがこのように古事記で起こったことのほとんどが四国の中だけのことだったと考えています。私も結構参考にさせていただいている笹田孝至氏『阿波から奈良へ、いつ遷都したのか』(2012)株式会社アワードなどもこの考え方です。

この論では白村江の戦いで日本が負けるまで、都はずっと阿波にあったというものになります。白村江の戦いで倭が負けた結果、もっと国力をつけるため(というか見た目のハッタリ力を増やして外国に侵略されないようにするため)大掛かりな都を近畿に作ったという話です。

私も最初は「ええええー?」と思ったのですがそうなのかもしれないという論証が徳島だけを見る限りあるような気がします。結構な数の阿波倭論者がこの説に立っています。ただかなり阿波の地名に詳しくないと若干つじつまが合わないところがあるのと、ではそれまで近畿や中国地方は開拓しなかったのか、という謎が残ります。

つまり大阪や神戸、前回紹介した十代崇神天皇の代の岡山の帰属(桃太郎の鬼退治の話)など、うまく説明できないことになってきます。こうした土地はいきなり600年代に帰属したわけではないでしょう。

それで私は、とりあえず、神武は一度四国から出た、という論を支持しています。四国を出たものの、古都としての阿波は残り、二代目天皇から応神天皇のあたりまでで、奈良京都ではなく、大阪、兵庫、岡山、山陰あたりをまず帰属させたという考えに立っています。

応神天皇あたりまで、阿波と近畿、あるいは四国の他の地域(私は香川の白鳥もこの時期都だったと考えます)と大阪で二都あった、あるいは緩い瀬戸内海連合があったと考えています。

ですのでここからの話はこういうとりあえず神武は四国を出てみた、という論の考証になります。

鳴門の渦潮が手ごわかった

鳴門の高島に宮を構えた神武です。海を見ています。海の向こうには大阪の難波(なみはや)がありそこは広い平野があるという情報を得ています。

誰から得たのかというと先にあっちに行ってしまった天孫族からです。すでに実は天孫の一人、「饒速日の尊(ニギハヤヒ)」が難波に上陸していたのです。四国を出た天孫族は神武が最初ではないのです。

神武が大阪に上陸するとナガスネヒコというニギハヤヒに仕える地元の人間が戦いを仕掛けてきます。その戦いの途中で、ナガスネヒコは、「なんで天孫が二人いるんだ?自分は既に最初に来た天孫に仕えているぞ。お前は誰だ、天孫である証拠を見せろ」と問い詰めます。

ナガスネヒコの話はとても興味深いので、また次回にしますが、神武が東征する前にすでに大阪に天孫族が住んでいて領土をもっていたのは衝撃的ですね。

ただし、神武はニギハヤヒを知らなかったようです。古事記を研究する際に脇に置いておくと便利なのが「先代旧事本紀」という物部氏が書いた本ですが、ここでは、神武もナガスネヒコもニギハヤヒも神武が阿波から来てびっくりした!という描写があります。

噂では聞いたが、実際天孫族が既にいたのを知らなかったことから、神武はこういうと申し訳ないのですが、天孫族の傍流なのではないでしょうか。

本家はさくっと海を渡って先に難波に行ってしまっていました。一方で神武はどうやって鳴門の渦潮を超えていくかすら分からず、考えあぐねていました。

古事記で速吸の門として出てくるのは鳴門の渦潮です。その流れの速さは渓流の激流くらいあります。鳴門の対岸の淡路島南端にある「道の駅うずしお」の裏手に降りていくと、渦潮を目の前で見ることができます。

ちなみに渦潮は一日に二回出来ます。その前後海流が激流に変わります。すごいです!!小舟なんか浮かべたら木っ端みじんでしょう。神武もさすがにビビったでしょう。なにせここはあのイザナギもビビッて禊を「もっと流れの緩いところにしようかな」なんて言わせたところです。

うずしお攻略の達人珍彦(うずひこ)登場

ところが都合よくここに渦潮のことをよく知る人物が現れます。その名も珍彦(うずひこ)!ベタな名前です。そのまんまです。

おそらく渦ができる時間帯をよく知っていたのでしょう。彼の手引きで神武は鳴門を離れて難波に到着します。

途中の経路はかなり端折っていて、まず淡路島に行ったのではないかと思いますが、そう書くといろいろバレるので、あえていきなり難波に到着します(笑)。古事記編纂者も大変です。

これだけの大手柄を演じた珍彦。彼を祀る式内社はどこにあるでしょうか。一応公式には兵庫県の保久良神社(式内社)ということになっていますが、徳島にはないのでしょうか。

徳島の鳴門にある宇志比古神社が珍彦を祀る式内社

私はかねてから宇志比古神社(式内社)という鳴門市にある神社が気になっていました。

宇志比古神社

宇志比古なる人物は古事記に現れないからです。近所にあるのでもう何百回も神社の前を通ったのですが、ウィキペディアで見ると宇志比古は岡山方面を平定した四道将軍の一人などととんちんかんなことが書いてあります(もっともそれはそれですごいのですが)。

ずばり、この宇志比古神社は珍彦を祀る神社なのではないかと思っていました。うしというとスサノオを想い出す人もいると思いますが、それなら八幡神社になっていたはずです。実際、混同があったのかこの神社は江戸時代は八幡宮だったようです。角川地名大辞典36徳島県では祭神は宇志比古と八幡神(スサノオ)となっています。明治期に宇志比古神社になりました。

先に上げた笹田氏の著作に珍彦は「景行紀」では「うじひこ」と呼ばれていると書いてあります。笹田氏もここが珍彦をまつる神社と考えていて、近くにあった西山谷古墳2号墳という奈良の古墳のモデルになったと考えられる古墳が珍彦の墓であるとまで言っています。

西山谷2号墳は道路工事で消失しましたが、石室は完全に保存され、そっくりそのまま県の埋蔵文化財センターのレキシルに移設されていますので誰でも珍彦さんに会うことができます。

西山谷2号墳石室移転展示

彼は物語ではわき役ですが、実は日本国を作るのにかなり大きな役割をしていました。古事記では珍彦はいきなり倭の国造に任命されてしまいます(笑)。先代旧事本紀では大和(奈良)の直部(国造)になっています。

阿波倭論では、倭は阿波、大和や大倭は奈良というように明瞭に分けています。神武東遷後、大倭(奈良)をバリバリ開拓したのはこの珍彦だったようです。

実際は、 国造の制度ができたのはまだだいぶ後のことなので、珍彦の子孫である、大倭氏が開拓したのでしょう。

阿王の墓が神武の墓、そして西山谷2号墳が珍彦の墓。どんどんすごい話になりますが、鳴門近辺を転々としていた神武ですから当然のようにこの地に生きた証が残っているのです。

次はナガスネヒコの話です。私はナガスネヒコが個人的に大好きなので、深堀りしていきます。

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