神武天皇は実在した―地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第六回 ナガスネヒコは阿波出身者

今日はナガスネヒコです。ナガスネヒコは長脛彦などと漢字で書かれて、それはそれで石原裕次郎のような足の長い人だったんだな、とかっこいいイメージですが、古代は漢字はまだ意味を表さず、ただ音を表す当て字だったので、本当に足の長いかっこい男だったかは微妙です。

日本人のルーツと四国の状況

ナガスネヒコが何者かを考える際、日本人全体のルーツと四国にはどんなルーツの人々がいたかを考える必要があります。

誰でもご存知のように、日本には縄文人と弥生人がいました。縄文人の方は2万年前にはもう日本にいました。驚きですね。中国文明よりもはるかに古いのです。彼らは遺伝子的にはハプログループDというものに属していて、現在の日本人の35%の人がこの遺伝子を持っています。

ネットでは中国や朝鮮半島に多いと出てきたりしますが、嘘です、現在
Dが見つかるのは中東とアジアの辺境の地や諸島、そして日本しかありません。 チベット、インドのアンダマン諸島、フィリピンやグアムの一部、中央アジアやアフリカの北東部など、いかにも大陸の中央から追い出されたところに生き残っています。

元はアフリカを一番最初に出他グループなのでしょうが、後続するマレー系と漢人、他民族に押されて辺境に追いやられて、日本にも多数逃れてきたのでしょう。

弥生人はどんな遺伝子グループか

次の弥生人が曲者です。弥生人というまとまったグループがないのは最近の遺伝子研究からも明らかになっています。ここは詳しく書くと1記事軽く書けますので後ほど紹介します。今日は簡単に遺伝子のグループ名だけ書いておきます。遺伝子城異なるいくつかのグループが日本に到来したということだけ今日は知っておくとしましょう。

その一つは東南アジア・台湾から直接来たグループです(ハプログループO)。航海術に優れていて、東シナ海を縦横無尽に船で走り回りました。貿易も広く手掛けています。海が大好きで日本だけでなく、ハワイを通り越してイースター島まで行ってしまいました。

もう一つが中央アジアやアラブに多く、朝鮮半島や中国北方を経由してきた東アジア人のグループです(ハプログループC)。昔の小学校で習った帰化人のイメージはこのグループでしょうか。

今日の遺伝子の話はここで終りですが、四国にはどのような人たちがいたのかというと、元の縄文人(D)が住んでいたところに、わだつみの海の人たち(O)そして養蚕や縫製を得意とする呉越出身の(C)さらに稲作が好きな中国南部少数民族やラオス北部の人(O)が移住して住んでいました。

そんな簡単に日本に移住するな!と言いたいところですが、Oの人たちは貿易だけでなく、人間を運ぶ仕事もしていました。大陸で大きな紛争が起こるたびに、海辺に押し出された人たちは新天地を求めて、この日本に流れ着いたのです。 日本はハプログループDだけでなく、ありとあらゆる迫害・弾圧されている人にとって最後のユートピアだったのです。

黒潮に乗ると実に簡単に日本にたどり着くことを知っているわだつみの人たちは、それで一財産作って竜宮城という王宮まで作ったのです。

ナガスネヒコは長の国の王子

徳島では、海の人たちが作った国を「長国」(ながのくに)と呼び、養蚕やお米を作る人たち(天孫族)の国を阿波国と呼びました。最近新説として、美馬や池田町の方に第三の国があったという見解もあります。

長国は現在でも那賀町として今も名前が残っていますが、徳島の沿岸部および今の吉野川の河口あたりまで支配していました。延喜式に長郡、先代旧事本紀に長国と出てきます。

そしてこれは大国主の支配する国、出雲です。出雲は島根県ということに明治期にされてしまいましたが、出雲の風土記にスサノオも大国主も出てこないのは有名な話です。

出雲という名前につい反応してしまうかもしれませんが、長国は大国主とその子供コトシロヌシ(いわゆるえびす、えべっさん)の国で、阿南市にある式内社、八鉾神社(やほこじんじゃ。式内社)が総本山になります。

八鉾神社

この八鉾神社は非常に特別な神社で、陛下が代替わりされるとき、次の陛下が必ずお参りします。令和になる際も極秘で皇室の大事な方に参詣いただいたという噂があります。公式には今上天皇は皇太子だったころ平成三年に参詣されています。伊勢神宮などでもないのに、陛下が代替わりの際に来るなんて不思議ですね。

ここまで来ると勘のいい人はもう分かったでしょう。ナガスネヒコは長の国出身の重要人物なのです。

長の国の洲の根の王子

ナガスネヒコの名前は、この長の国の洲にルーツを持つ王子となります。根という字は、阿波倭論ではルーツを持つ、という意味になります。出生地を表しています。根のつく御子や陛下は多いので、どこの出身かよくわかります。

尊や彦の皆さんの名前は中二病でついているのではなく、ちゃんと出身や系譜を示すようにある時期まではつけられています。

それでナガスネヒコは徳島沿岸部の島の出身であることが分かります。徳島の鳴門のあたりは渦潮で航海がむずかしいですが、南に下がればまあまあ穏やかな海です。現代でも徳島市沖洲から和歌山の北部へ大型フェリーが出ています。徳島から大阪南部にある関西空港に行くのに便利なフェリーです。鳴門の渦潮の方などけっして行きません(笑)。

ナガスネヒコの一族は天孫族が大阪南部に移住するだいぶ前に大阪南部と和歌山北部に進出していたのです。

そしてナガスネヒコの父母の系譜は古事記にも出ていませんが、おそらく大国主なのでしょう。後から来たニギハヤヒにすぐ帰属して妹を差し出して親族関係になったのも、元々大国主の一族だから先祖がそうしたのと同じことをしたのでしょう。

ナガスネヒコの妹は登美夜毘売(とみやびめ)、あるいは三炊屋媛(みかしきやひめ)という名前で、やはり毘売となっていますから、立派な大国主系のお嬢さんだったのです。

ナガスネヒコの系譜が不明なのは物部氏の没落のせい

登美夜毘売(とみやびめ)はニギハヤヒと結婚してウマシマジを生みます。このウマシマジは物部氏の先祖になります。

物部氏が書いた先代旧事本紀では神武との闘いが詳しく書かれていますが、古事記ではあっさりと書かれています。ナガスネヒコが戦いに負けた後どうなったかも古事記では書かれていません。 先代旧事本紀ではどうしても考えを変えられなかったナガスネヒコをニギハヤヒがやむなく殺して戦争を終わらせたことになっています。

古事記ではなぜいろいろ省略されていて、 先代旧事本紀 では逆に悲しい結末がかかれているのでしょうか。ご存知の通り、物部氏は後に蘇我氏と対立し、勢力を削がれて弱体化してしまいました。朝敵とまではいかないものの、その後あまりパッとしなかった一族です。いろいろと表に出てくると困ると朝廷は思ったのでしょうか。

物部を逆賊と考えるなら古事記にナガスネヒコはニギハヤヒにやむなく殺されたと記述があってもいい気がします。物部氏の後裔が自分たちのルーツを隠すなら 先代旧事本紀 のほうこそあいまいな書き方がされてていい気がします。

逆になっているということはそれなりに、物部氏は蘇我氏にやられても権力を維持していたということでしょう。少なくとも古事記編纂の時期まではそうなのでしょう。それでナガスネヒコの最後を削除させたのかもしれません。

物部氏の後裔はナガスネヒコを殺されたことを恨んで 先代旧事本紀 にちゃんと書いた、ということなのでしょう。

さて、ここまで書いて結構長くなってしまったので、次回はナガスネヒコは生きていた!?んなアホな?という話を書きます。

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