神武天皇は実在した―地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第四回 徳島の沿岸を放浪した神武天皇

鳴門市の数か所で本拠地を移した神武

藍住町(筑紫のヒムカ)でアヒラヒメをお嫁さんにもらった神武は隣接する今の鳴門市の大麻町というところを中心に都を移していきます。

大麻町には古墳時代最初期の前方後円墳と考えられる萩原古墳群など実に多くの古墳が見つかるところで、古墳のメッカとでもいえるところです。古墳マニアの皆さんもしまだ来たことがないならぜひ来てみてください。

特に萩原古墳群と呼ばれるところは近畿の古墳の先駆けとなったところです。弥生時代末期の建造です。近畿の古墳の先駆けなのに、近畿の影響を後に受けましたとは言えないはずです。考古学会も早く目を覚ましてほしいものです。

萩原古墳群

これらの古墳群は緩やかな丘陵の斜面にあり、足元には船が航行する川が流れ(海もまだ深く陸地に入り込んでいました)航行する船の目印になっていたようです。

神武がヒムカから次に移ったのは、筑紫ですが、当時筑紫は阿波の海岸沿い全般を指す地名だったようです。これはイザナギが黄泉の国を訪れた後、禊をしたのが、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で、これは徳島市より少し南にある阿南市の橘というところと、阿波論研究者は比定していていわば阿波倭論者の間では常識となっています。

ところで神武が藍住町からいきなり南の阿南市に遷都するのは難しいと思います。私も神武は阿南に行ったのかなと多少は思うのですが、当時の地形を考えると難しそうです。

藍住町と阿南市の間には今の徳島市や小松島市がありますが、山がちな小松島市はさておき、徳島市はほとんど海の下でした。徳島市の県立図書館があるところはすでに多少標高の高い丘陵地ですが、その周辺に「浦」と名前のつく地名が多数残っています。海水はこの辺まで上がっていた証拠です。

徳島の80%は山ですが、当時は海がかなり内陸部に入って来ていて、さらに吉野川をはじめとする大河が頻繁に氾濫するので、人々は皆、水害を恐れて丘陵地に住んでいました。

ここは試験に出る大事なポイントです。倭の人々は山の人なのです。だだっ広い平城京や平安京を都と思う現代人は分からないかもしれませんが、徳島の人が奈良や京都に行って思うのは、ほー、こっちにも婆ちゃんの集落に似ている山があるなあーということなのです(笑)

藍住から川を超えて山を越えて阿南にたどり着くのはかなり疲弊するので、宮を造営するのは難しいのではないかと思います。それよりは藍住町から地続きというか完全に目の前の鳴門市大麻町に引っ越すのが現実的です。

さて、話がいきなり阿波倭論の核心に入ってしまいましたが、話をさきほどの筑紫に戻すと「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」とだんだん範囲が大きいところから小さいところになっていきますので、おそらく鳴門市も昔は筑紫の一部だったのでしょう。

鳴門市大麻町を中心に転々とする神武

次に彼は豊国の宇沙へ、そして、筑紫の岡田へ移ります。宇沙という地名は徳島にありませんが、ここで古事記編者はぼろを出して、「豊国の」などと律令以降の地名を挿入してしまっています。神武の頃に「豊国」がありましたか(笑)。古事記はできる限り忠実に読みますが、ときどき史実ではない700年頃の古事記「解釈」が挿入されています。

次の岡田はこれまた大麻町と隣接する、藍住町からは買い物自転車で行ける板野町の「岡上神社」(おかうえじんじゃ)の足元の板野町大寺字岡山路のあたりに移ったと考えます。この神社は延喜式内社です。豊受姫命を主宰神としています。由緒正しい神社で源義経も参詣しています。義経は軍神のところを参詣していますので、今は食べ物の神様である 豊受姫命 を主宰神としていますが、元は神武だったのかもしれません。

ここの近くはまた古墳のメッカで黒谷川郡頭遺跡(くろだにがわこうずいせき)があります。阿南の若杉山で採れた辰砂(水銀朱が含まれる石)を精製して朱を作っていました。「その山に丹(朱のこと)あり」と魏志倭人伝に書かれているので、邪馬台国が阿波にあったのはゆるぎない事実です。

このすぐ近く、板野町大寺字亀山に「阿王塚古墳」と呼ばれる古墳がありました。現在「御聖天山」(ラノベのような凄い名前ですね)と呼ばれ、亀山神社となっています。出土遺物もあって、平縁神獣鏡2面、鉄剣5口、鉄鏃が出たのですが、宮内庁に持っていかれてしまいました。

出てきた出土品からして、まさに「我武神」(漫画のキングダムですか!?)という感じの方の古墳です。私はこれが神武天皇の墓ではないかと思うのですが、「阿王」が誰なのかについてはサルタヒコだとか忌部氏の誰かだとか、いろいろ考えられるところです。サルタヒコは芸能、忌部氏は宮廷儀礼のほか養蚕や縫製に関わっていたので、「我武神」なのは神武しかいないのではないかと考えています。

しかし阿南市にも岡という地名があり、そこも岡山と呼ばれる円墳があります。埋蔵物が何なのか気になるところです。

そこから阿岐のタケリというところに移ります。現代古事記解釈者は広島県の安芸郡だろうとしています。しかしタケリが見つかりません。そもそも全国にタケリという地名は一つも残ってないようです。

ところが阿波論だと、 阿岐と書かれているだけで、これは阿波のどこかだな、と思うわけです。 阿岐が阿波岐の略だとするとまたしても阿南のような気もします。 しかし「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」を厳密に読むと、「徳島沿岸の藍住町の橘の小門の阿波岐原」となってしまい、ひょっとして橘は藍住町にあるのかとも思いますが、阿波倭論の大先生たちに怒られてしまいそうですので、悩むところです。

このように神武の本拠地は阿南か鳴門か悩むところですが、もう少し考えるとやはり藍住町に隣接する大麻町と板野町なのではないかと確信が持ててきます。

続いて吉備の高島に移りますが、吉備(笑)。また700年頃の古事記解釈者が勝手に挿入した地名です。「吉備」が当時ありましたか。吉備が倭に加わったのは桃太郎の鬼退治で有名な吉備津彦が活躍した第十代崇神天皇の時です。

岡山市にある備中の一宮である由緒正しい吉備津神社の縁起にそう書かれています。

吉備津神社

700年の古事記解釈者はさりげなく、当時の解釈を盛り込んできます。「吉備」は神武の頃存在していないのです。

そうすると高島は鳴門の高島になります。塩田だった場所として有名な島ですが、有名な古墳がないようです。徳島の高齢の地元研究者によると、鳴門は80年代から道路や橋をガンガン作り始め、ちょっとでも掘ると埋蔵物や人骨がぞろぞろ出て来て、それを県に報告すると工事がストップするからただ海や谷間に捨てていたそうです。

高度成長期です。古いものは何でも破壊しました。徳島県民はさらに新しいものが好きなんだそうで、当時は誰も心が痛まなかったのでしょう。ポイポイ偉大なご先祖様を谷間や海に捨てました。

基本的に吉野川の北岸丘陵地は掘れば掘るだけドンドコ出てくるところで、その延長にある鳴門市の高島や大毛島で出ないはずがありません。しかし土建屋さんにやられてしまったのです。

現在ではある程度の大きい土建工事をするときは、埋蔵物がないか予備調査をすることが義務付けられています。そのため、歴史的大発見に至る埋蔵物が徳島でガンガン見つかっています。

昭和の時代に古都は近畿か九州のような誤った概念が広まって今に至るのは、徳島の土建屋さんがぽいぽい埋蔵物を捨てて古墳を破壊していたからなのです。

そしてもう一つ何か凄い物が出てくると、宮内庁に持っていかれてしまってどこにあるか分からなくなってしまったからです。

この二つのせいで古都徳島の本当の姿が見えなくなってしまったのです。

さて神武は鳴門の高島にたどり着きました。東岸にあるはずの大阪南部を見据えてそこからどう攻略するか「我武神」らしく作戦を練りに練ったことでしょう。

次はいよいよ神武が瀬戸内海を渡るところからスタートします。

前記事 神武天皇は実在した―地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第三回

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です