神武天皇は実在した―地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第三回

神武天皇すら実在しないと思い始めた日本の知識層

見える物を見ないで、見えない物が見えると言い続けていると結局自己矛盾に陥り、その対象自体を考えるのが嫌になってしまいます。

邪馬台国研究もすでに阿波論以外の人はギブアップした感がありますが、天皇のルーツをたどる場合もそうです。

イザナギ・イザナミからトヨタマヒメ(古事記上巻の範囲)は神話であって、実際の歴史ではないということで、相当多くの人が納得していました。また、二代から九代までは欠史八代と言われていて、実在しないと言われていました。崇神天皇も怪しい、神功皇后も朝鮮半島を征伐したなどと荒唐無稽な神話の世界だということで、倭五王として中国の宋書や梁書に出てくる履中天皇あたりから実在の天皇ではないかという話になっています。

そして遂には初代の神武天皇もいなかっただろう、という話になりつつあります。そんな書物を見たことのある人もいるでしょう。

神武天皇が架空の人物ではないかという根拠は、神武天皇が、大阪南部に進出するいわゆる神武の東征の前に住んでいたところが、「日向」すなわち、多くの人が宮崎県の日向(ひゅうが)だと思っているからです。

宮崎県だと何がまずいかというと、まだこの頃は大和朝廷に従属しない熊襲の皆さんの国だからです。大体北九州のごく一部を除けば、甕棺墓文化という近畿や四国中国では見られない独特の埋葬形式を持った別民族の皆さんが九州の大部分に住んでいたのです。

これはまずい、そうなると神武天皇は熊襲出身ということになってしまう!ということで、この件はタブーとなり、タブーにしておくだけでは皇室の名誉を保つのに足りないので、神武天皇は存在していない、神話の人物だということになりつつあります。

もう少し詳しく古事記や日本書紀を読んだ人がこれはおかしいなと思う点は、彼は東征するにあたって、

〇海は一回しか超えていない。いつどうやって福岡—山口間を渡ったのか

〇高千穂を出て、なぜか宮崎の日向、北部の筑紫、広島のタケリ、吉備の高島とそれぞれ何年か住んだ後、海を渡って大阪の「南部」に侵入した。

〇そうした本州を長い間移動していた際、神武に対して一切の反乱や抵抗が起きていない。

〇最初の進入では現地のナガスネヒコに返り討ちに会い、敗走し、また出直して今度は和歌山から侵入し北上し、ナガスネヒコを討った。

〇大阪近辺ではナガスネヒコだけでなく、ありとあらゆる部族が抵抗した。

これだけ読んでも実におかしいことになります。どういうことかというと、

◇九州と山口の間にも海がある。しかもかなりの難所で簡単にわたることはできなかった。

◇神武の頃、本州の中国地方、四国地方をすんなり通れるほど西日本が統一されていたとは考えられない。まして九州の王がのこのこ出てきたら返り討ちに合うはず。

◇いったん負けて敗走し体勢を立て直すにしても、また九州まで戻ってもう一度出てきたのだろうか?そんなことをしたら戦費も犠牲も多くなるはずである。和歌山に陸路で下がったにしても熊野は現在でも分かる通り歩くのが大変なところで、そんなところに歩いて撤退したら全滅するのではないか?

◇大阪の周辺ではなぜものすごい数の部族が抵抗したのか?

と普通に考えれば疑問がわいてきます。更にツッコミを入れたい場合は、ナガスネヒコの話を深堀りしていくことになりますが、とりあえず、ここまでで神武が九州から来たという話にするとおかしいことになってしまうというのは分かってもらえたと思います。

実は神武天皇とその奥さんアヒラヒメは阿波の人間だった

ところが神武天皇が阿波(徳島)の人で、東征をスタートしたのも徳島から、ただ向かい側の大阪南部に出て行っただけ、と考えると実に上記の謎がスッキリ解けます。

そんなバカなと皆さん思うと思うので、外堀をじわじわ埋めていく方法で議論していきます。

まず神武天皇の最初の妃の名前は古事記では 阿比良比売(あひらひめ) 、日本書紀では 日向国吾田邑の吾平津媛となっています。

日向にいた時にもらったお嫁さんだから、まあ、そうでしょう。ところが、アヒラヒメが祀られている神社は徳島県藍住町の伊比良咩神社(いひらめじんじゃ) しかないのです。全国で唯一です。

普通、八幡神社など見れば分かる通り、人気のある神様は全国いろんなところで祀られますが、アヒラヒメが生んだ息子は、皇位を争い、二号さん(と言って良いのか・・・分かりやすく現代ラノベ風にしています)の息子さんたちに討たれて、長子だったのに二代目天皇になれなかったのです。

すなわち反逆者のお母さんになってしまい、全国で非常に不人気で、これは生まれたところ以外は祀れないということになったのでしょう。

今はゆめタウンという大型のショッピングモールがあって、徳島の中でも比較的人口の多い藍住町。昔は吉野川水系やあるいは河口にかなり近かったようで、戦国時代にできた藍住町の勝瑞城(しょうずいじょう)からは海にすぐ出て行けたようです。細川氏や三好氏はこの勝瑞城を本拠地としていました。

ということで、今の藍住町は当時は日向(ひむか)の吾田(あた)とよばれていたところだったのです!

長髪比米の日向

もう一つ、日向は日向ではなくて、阿波論でいうひむか、という阿波の地名だったことを裏付ける話に日向の髪長媛(かみながひめ)の話があります。

日向の髪長媛は応神天皇に見初められたお姫様です。応神天皇も阿波、特に藍住町に深く関係のある天皇でしたが、それは置いておいて、日向の髪長媛との出会いは次のような話です。

日本書紀 巻第十 (應神天皇)
十三年 秋九月の条に

〔一(ある)は云う、-中略-始めて播磨に至りし時に、天皇(すめらみこと)淡路嶋(あはぢのしま)に幸(いでま)して遊猟(みかり)したまふ。是(ここ)に天皇(すめらみこと)西(にしのかた)を望(みそなは)すに、數十(とをあまり)の麋鹿(か)、海に浮きて来り、便(すなは)ち播磨の鹿子(かこの)水門(みなと)に入る。

伊佐爾波神社より引用

これを簡単に言うと、「兵庫県に応神天皇が初めて行ったとき、淡路島に出て来て、西の方を見てみると数十の鹿が海に浮かんでこちらにやって来た」というものです。

淡路島から西を見て、果たして宮崎県が見えるのでしょうか!?淡路島から西を見てもらえば見えるのは鳴門しかありません!高松や小豆島も見えるでしょうけども(笑)。

いずれにしても絶対に宮崎県は見えません。日向(ひむか)を宮崎県のひゅうがだというのは、後の古事記解釈者の後付けなのです。

なお、引用させていただいた 伊佐爾波神社 は四国の愛媛にあります。門にはこの時の情景を示す波を泳ぐ鹿が彫られています。髪長媛もまた四国のお姫様なのです。

このようにアヒラヒメや髪長媛は四国の人間で、日向はひゅうがなどではなく、ヒムカという今の藍住町に実在した場所だったのです。

さて、ここまでで日向はひゅうがではなく、徳島県のひむか=今の藍住町だということが分かりました。

来週は東征の前に一体どこを神武天皇はうろうろしていたのかを紹介します。

前の記事 「地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第二回

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です