地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第二回

見えないものが見え、見えるものが見えないのはおかしい

前回、邪馬台国が見つからないのは、思い込みとタブーと認めたくない病のせいだと書きました。

今日は思い込みについて書きますが、実に思い込みというのは恐ろしいものです。

思い込み合戦は江戸時代から

邪馬台国が見つからないのは江戸時代の本居宣長や新井白石といった初期の邪馬台国研究家から綿々と続く思い込みのせいです。中国の史書に出るほどの国だから、奈良や京都のような近畿地方にあったに違いないという思い込みと、九州からも遺跡が見つかるのだから九州に違いない、という思い込み。どちらも意地を張って素直に自分たちは間違っていると認めません。

特に近畿説は、邪馬台国にたどり着く道程に出てくる方角を90度捻じ曲げて、南に行くところを東だ!といってごまかします。しかし90度捻じ曲げたせいで、邪馬台国の東にも倭人の国がたくさんあると書かれているのに、東が北になってしまうと都合が悪いので、それは捻じ曲げる必要なく(関東のような)東だ!と持論を自分で破たんさせています。

九州説も方角についてはあいまいなところがあり、一旦九州に上陸したのちどこかまた水上を行くのに、それはないことにしたりしました。九州説は東に中国四国近畿地方という倭人の国があるので、近畿説よりは若干有利です。

近畿説は、暖かい地方のことを言っている動植物の描写を無視します。九州は暖かいのでそうかもしれないと思えないこともないでしょう。

しかし、山口と接触している北九州を除いて九州は甕棺墓が普通です。それからまた北九州を除くと、いわゆる熊襲の国として長らく倭と対立していました。そのため、邪馬台国は九州土着の女酋長が治めた国だなどという珍説に落ち着かざるを得ませんでした。

70年代に出た邪馬台国、卑弥呼の本を私も何冊か持っていますが、その中で70年代に邪馬台国について書かれた本が既に百数十冊もあると書かれています(『女王卑弥呼99の謎』樋口清之 産報ジャーナル 1977)。

これだけ多くの、少なくとも普通の人よりもたくさんの労力と時間をかけて丁寧に調べた皆さんが、邪馬台国は近畿か九州にあるはずだという思い込みのせいで、真実にたどり着くことができなかったのです。

ただ魏志倭人伝をそのまま読めば、これは四国なんじゃないか?とすぐ分かったのですが・・・

四国の調査が遅れていたという事実はある

しかしこれにはやむを得ない事情もあるかもしれません。明治以降の四国の多くの人は新し物好きで、古いものに興味がありませんでした。

年配の方から聴きましたが、90年以前は道路工事などで古墳や人骨が出ると厄介なものが出たということでそのまま捨てていたそうです!

鳥居龍蔵という立派な考古学者、民俗学者も輩出しましたが、彼も徳島で出たものを中央のどこかに持っていってしまいました!県内に残っていません。

しかし、90年代から埋蔵物に対する意識も変わり、一定規模の道路工事や建設をする際は予備調査をすることになりました。すると出るわ出るわ・・・

大判小判がざっくざく(笑)

余り大判小判の話は聞きませんが、銅鐸などはバンバン出ます。人骨もバンバン出ます。箱式石棺と呼ばれる埋葬法でバンバン出ます。この箱式石棺こそ、魏志倭人伝の言う、郭のない墳墓です。もしこれがカメに入っていたら、必ず中国人は奇異な風習として記録したことでしょう。

昔からある程度古代史が好きな地元民には知られていたもので、ちゃんと調査され直したものもあります。弥生時代終わりからの日本で唯一の辰砂の採掘坑である阿南市の若杉山辰砂採掘遺跡などそうです。「その山に丹(辰砂のこと)あり」と魏志倭人伝に書かれています。

80年代から、阿波(徳島のこと)はもしや、飛鳥以前の古都だったのではないかと思った地元の方たちが本を書き始めました。

そうしたものは後にまた紹介していきますが、地名や寺社に伝わるいわれ、古事記上巻に出てくる神々を祀るユニークな式内社の存在など、次々と明るみに出てきました。

特に大ヒルメ(アマテラスオオミカミ)の墓がある式内社、徳島市の八倉比売神社の存在。これはすごいものです。そしてもう一社、崇神天皇の時代に疫病が蔓延し、アマテラスと一緒に祀るとよくないということで、アマテラスの方が他地方(伊勢)に移ることになってしまって、阿波に残った美馬市の倭大國魂神社の二つが存在します。この二社はこれ以上ない阿波が飛鳥以前の古都だったことの証拠でしょう。

邪馬台国ではなく「やまと」だった

邪馬台国を見つけるのを不可能にしたのはその名前です。やま、の二文字まで合っているのですから、もうこれは「やまと」だろう、と思うところが、なかなかそれが認められず、幻の(架空の)ヤマタイコクを追い求めてしまいました。

しかし、中国の後漢書には107年に倭が使者を送ったことが記されていて、それを解説した通典(801年)では「倭面土」と国名がなっていて、日本書紀を解説した日本書紀纂疏(1457年)でも「 倭面土 」となっています。

すなわち、中国に使者を送っていた国は「やまと」 (イェバットーのような発音でしょうか) と発音される国だったのです。

本居宣長は傑作で、通典に「倭面土地升等獻生口 」と書かれているのを見て、「面土地」の三字は意味が明らかでない(『日本国家の起源』井上光貞 岩波新書 1960)などと言っていました。

しかし素直に読めば、「やまとの地の国王(と)師である升 らが奴隷を献上した」と読めるはずです。 「面土地」 などという変なところで切る必要はないのです。 師 は軍師のことでしょう。等と複数になっているので、国王と軍師の「升」が送ってきたのです。

これは普通に読めば、それ以外には読めません!それを本居宣長ほどの人物が、思い込みのせいで、「倭」はそれだけで「やまと」と読むから、残りは 「面土地」 で何のことか分からない!?と言っていたのです。

倭はそれだけだと、イとかワイとしか読めませんし、まして大和はダイワとしか読めません。中国人にこれらの漢字はなんと読むか聞いてみれば「ヤマト」と読む人はただの高度な日本通でしょう(笑)中国人は発音を正確にするため 「倭面土」と書いて「やまと」と聞こえる音の通りに書いていたのです。倭の一字は略称であり、若干蔑称の意味で使われていたのでしょう。

本居宣長の例はここまでくると滑稽を通り越して、悲壮感さえ漂います。

素直な四国倭邪馬台国論を完成させるために

このように江戸時代から激しい思い込みで何も進まなかった邪馬台国の研究ですが、ついに畿内説、九州説双方とも破たんして、どうでもいいや、という風潮になっています。最近誰も邪馬台国について語りません。

ぜひ、まだ邪馬台国に興味がある学者は四国、特に徳島に来てもらいたいものです。鳥居龍蔵の頃など学会のタブーが以前は強かったようですが、若杉山辰砂採掘遺跡のおかげで、タブーもなくなり、いよいよすべてが明るみに出ようとしています。

ぜひ素直な四国倭邪馬台国論を完成させるために皆さんも四国に足を運んで実際に目で見て感じて行ってください。

次回は、思い込みの実例の一つとして、神武天皇のことを書いていきます。神武天皇も元は阿波の人です。んなアホなと思うかもしれませんが、来週をお楽しみに。

前記事地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第一回>はこちら

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です