地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第一回

「地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張」というタイトルで、10カ月ほど記事を書いていくことにしました。

すでにアマゾンのKindeで「Q&Aでよくわかる!! 阿波倭邪馬台国論入門 Kindle版」という本を出していますので、このテーマに初めて触れる方は、ぜひこちらをお読みください。

1週間に一度程度記事を追加していくことを目指しています。10か月後にまとめて、新しいアマゾンのKindle本に仕上げていこうと思っていますので、この記事は草稿のようなものです。誰も読む人がいないとなかなか筆が進まないのです。メルマガで出そうかとも思いましたが、最近、自分の書いている物は自分のところに集約して管理しようと思っているので、この自分のHPで発表していこうと思います。

ところで、邪馬台国については90%程度、初期の倭王朝については80%程度の確実さで、徳島県を中心とした四国にあった、ということで間違いないと思います。

特に邪馬台国については、「徳島県を中心とした四国にあり、西部山口と福岡北部は協力関係にあった。以上、おしまい」と非常に短く終わるのですが、なかなかこの事実が全国的に受け入れられるところまでいきません。

しかし、魏志倭人伝の描く邪馬台国は近畿にも九州にもなかったことはうすうす現代の研究者は分かっているようで、もう邪馬台国論争のようなものが起こることもなくなりました。

少なくとも次の四点から、四国にあったのは事実であり、それを覆すことはできないのです。

(1)邪馬台国にたどり着くには、九州に上陸した後、再び水上に出て、さらに長期間歩く。九州ではない。

(2)暖かい地域であると書かれていて、動植物も暖かい地域のものを指している。海女の文化やアワビ、ミカンと思われるものが出てくる。奈良や京都ではありえない。

(3)その山に丹(辰砂)を採掘する山があると書かれていて、徳島県阿南市の若杉山辰砂採掘遺跡以外にこの時代辰砂が出る採掘所はない。

(4)葬儀の形式が箱式石棺と呼ばれる四国と一部瀬戸内海地域にしかない葬儀の仕方である。甕などに入れない。甕棺が主流である九州の勢力ではない。

これだけでもう十分で、こうした証拠を覆すことはできないのです。現在徳島県民のほとんどが、邪馬台国は徳島の山上にあったという話を当たり前のように思うところまで来ています。

思い込みとタブーと認めたくない病のせいで間違った論争に

しかし日本のアカデミックな場では、邪馬台国は四国にあった、などと口に出してはいけないようです。そもそも邪馬台国の話すら、最近はほとんど聞かないように思います。書店でも新刊は出てこないようです。

どうしてこうなったかというと、やっぱり間違ったことを言い続けるのは学者も辛いからでしょう。例えるなら、最初に問題を設定する際に間違ったのです。鯨を探すのに、池や川を探して、理由をあれこれ考え、池派と川派で論争までしていたのですから、大変な間違いでした。

しかも日本人最高の頭脳を持つような方たちが 池派と川派で論争をしていたのですから、恐ろしいことです。誰か、そうじゃない、海を見ろ、目の前に鯨は居るだろ!!と言えば良かったのです。

鯨を例えに使ったのは、高知県では鯨を見ることができるからです。意外にこのことは知られていないと思います。鯨を見に、ハワイまで行く人が多いですが、これからはぜひ高知県に行ってください。

実は黒潮に乗れば、暖かいところの物や人まで四国に届いてしまう・・・ここから更にぐんぐん、千葉県や東北まで行けてしまう、という事実をなかなか日本人の本州に住む人は理解できません。

私も実家は宮城県の仙台、社会人になってからは外国と東京に住んでいたので、まさか高知県で鯨が見られるとは思っていませんでした。

池派と川派の先生たちも知らなかったのでしょう。邪馬台国は海とつながっていてそこの住民は航海に慣れ親しんでいてあちこちに自由に行けたのです。

黒潮の話が出てきたところで良い感じで第一回目の記事を終えます。第二回は次週を予定しています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です