日本語の原型はペルシア語と呉越の通訳者が造った人工的な翻訳語である

菅井英明

本記事の内容を結論から急いで書くと、タイトルで書いたようになる。日本語の原型はペルシア語と呉越の通訳者が造った人工的な翻訳語である。

そう考えられる理由の詳細は後の記事で追加することにする。現在、中東で大規模な戦争が起こる可能性があり、遺跡や碑文が大量に失われる可能性がある。そうなる前に、とりあえず骨子だけは緊急に記しておきたい。

ペルシアとの時代的背景

ペルシア語は印欧語であり、その中でインドーペルシアンと呼ばれるサブグループに属する。一番近いのがサンスクリットであるが、ペルシア語自体が「アヴェスタ」と呼ばれるかなり古い経典があるため、古い形を再現することができる。

日本語と関係があるのはアヴェスタの時代ではなく、弥生時代の紀元前200年ー飛鳥時代ではないかと考える。

シルクロードと言うと砂漠の陸路を想い出すが、確かにその経路も古代からあって、中国の山東省のLinziで約2500年前の漢代の遺跡からは欧州人の人骨が多数発見されている(植田 2009)。

海のシルクロードというのもあって、縄文時代にすでに黒潮(暖流)を使って縄文人は伊豆諸島から自由に太平洋上を移動できた。

三万年前に台湾から与那国島に丸木舟で来られたかを丸木舟を作って実験した結果ではきちんと与那国島に到着できることが立証されている(Science Portal 研究は日本の科学博物館の海部陽介による)。

縄文時代はもっと航海の技術が進んでいるはずで、沖縄諸島から台湾あるいは江南、ベトナム、フィリピンに黒潮を利用して点々と泊まりながら行くのは容易だったろう。

黒潮は季節によって逆向きに流れるので、それに乗ってカツオは日本の西日本と東北を行ったり来たりする。江南や与那国島から日本に戻ってくるのも難しくなかっただろう。

弥生時代になると、大陸の呉越の民と倭人は福建省、広東省からベトナムに貿易港を多数持っていたと考えられる。

当時倭人は百越と呼ばれる中国南部に住む100の部族の一つと中国の歴史書の研究からみなされている(鳥越 憲三郎説)。彼らは揚子江下流、江南やベトナムに拠点を持ち、本国の日本との貿易を担っていったのであろう。

ここには倭人や渤海の商人だけでなく、フィリピンやタイ、インドを経由して様々な国の貿易商が結集していたと考えられる。山東省の沿岸部に漢代に欧州人が進出しているのであるから、中国沿岸部の主要な港にはどこでも多くの欧州人がいたであろう。

現在の日本語の原型はこのような他民族との交易のための言語として生まれたのである。

他言語との比較

その中でもある時代のペルシア語との関係が考えられるのは、機能語が日本語にそっくりだからである。ペルシア語を紹介する前に簡単にある言語と他言語との比較はどのように行われるかを記そう。

比較言語学では200あるいは400の基礎語彙を比較して、まず二言語間で意味がほぼ同じで形が似ている語を比較する。これらは共通の親から出てきた子どもたちであり、同根語(cognates)と呼ばれる。

基礎語彙には数字や親族、自然といった、どの民族でも使うだろう語いが選ばれていて、文化的な道具や思想・哲学に関するものは、「借用」と言って、文化流入のせいで同じものを使うようになった可能性が高いので排除する。また動詞や形容詞よりも名詞が多い。動詞や形容詞はその状況から人類が普遍的に感じるものがそのまま音になることがあり、人類の普遍性による共通語を排除したいからである。

二言語間あるいは多数言語間の同一の親を祖語と呼ぶ。道具や思想の名詞、普遍性による形容詞や動詞を排除しても、祖語が同じであれば音の形態が似ている同根語がいくらでも見つかる。

しかし日本語の場合、どの近隣語でも同根語が見つからない。近隣は諦めて、はるか遠くに求めても見つからない。様々な言語から数個は疑わしいものが見つかるが、例えばサンスクリットとペルシア語のようにぞろぞろそっくりなものが見つかるわけではない。

そのため、基礎語彙は諦めて、語順に着目する研究者が多い。そうすると<主語ー目的語ー動詞>という並びから朝鮮語、モンゴル語、トルコ語、ビルマ語と似ているとなるが、同根語が見つからない言語間で親族関係を認めることはできないので、日本語は親族がいない「孤立語」であるというのが、言い方は悪いかもしれないが「正統な」言語学研究の結果である。

遺伝子研究からの方向性

このように親族が見当たらないため、日本ではこの比較言語学といわれる分野が遅れに遅れてしまった。研究者もほとんどいないのである。そのため、基本的なトレーニングを受けていない研究者があの言語に似ている、似ていないと言い始め、特に朝鮮語やモンゴル語と似ていると信じてやまない者は多い。

それを打破する方向性が遺伝子研究のほうから出てきている。民族間の遺伝子の比較は既に終了の段階に近づいている。その結果分かったのが、女性にだけ遺伝するミトコンドリアの形質から、日本人の多くは、揚子江南部やベトナム海岸に多く見られる遺伝子を持ち、男性はY染色体の比較から、もっと広範囲に中東、イタリア、インド南部、チベットに同一の遺伝子を持つ民族がいることが分かった。

遺伝子による比較研究を歴史的な民族の拡散の研究に応用することについては、いくつか注意すべき点はあるのだがそれはまた別記事で記すことにして、女性の方の研究はイネの遺伝子の研究結果と一致している。稲作を持ち込んだのは長らく誤って信じられていた朝鮮半島の人々ではなく、中国の南部、あるいはベトナムの沿岸部の女性だったのである。

そして男性もみんながみんな朝鮮半島から馬に乗ってやってきたわけではなく、アフリカを出た後、中東を通り、インドの南部を周り、船でおそらくフィリピン、インドネシアにたどり着きそこで休憩し、そこからベトナムや呉越に昇り、おそらくそこで倭人や呉越の女性をたくさん乗せて黒潮に乗って一緒に日本にたどり着いたのである。

一部は厳しい山岳地帯の北回りでチベットの方を通って日本を目指したが、成功した者もいるだろうが、他民族に阻まれ多くは日本にたどり着けなかったのかもしれない。そのため遺伝子も向こうに取り残されたのである。

このように遺伝子研究が日本人のルーツを次々と明らかにしているのに、言語学の方は何ら進展がない。比較言語学の基本を飛ばして朝鮮半島と中国から文物は来たという昭和史観にいつまでも囚われているからであろう。

朝鮮半島と日本の間には対馬海流が流れている。また別記事で詳しく書くが、西から東へ流れる海流の流れが丸木舟で焦げるスピードより早く、釜山を漕ぎ出すと、東に流され、日本海の何の島もないところに流される。そのため朝鮮半島から直接日本には来ることが ほぼ できなかった。もしできるのであれば遣隋使、遣唐使も対馬を往来するが、その時代であっても朝鮮半島との往来で何度も失敗し、確実だったのは黒潮に乗って南を行き来するルートだった。

後の時代に山田長政がタイのアユタヤに日本人村を作ったり、インドネシアのスマトラ島が東西の交易の要所になっているのもこうした海のシルクロードが発展していったものである。

大野晋とグリーンバーグ

言語学の世界で二つだけ、遺伝子研究の結果と矛盾しない研究が出ている。一つが90年代に一般書籍化された大野晋のドラヴィダ語説である。ドラヴィダ語はインドの南部で話されている。この書籍が出た当時、大野氏の説はほとんど荒唐無稽な説と思われていた。また大野氏が正式な比較言語学の手順を知らないため、基礎語彙の比較をしていなかったり、単に語頭の音が同じで語の形が似ているペアを同根語のつもりで並べたりするだけで、それ以上の説得力がなかった。

それ以上に進むには、なぜ言語Aの音が言語Bでは別の音に代わるのか、自然な音変化のルールを規則的に見つけなければならず、それは語頭の音だけでなく、語中、語末、すべての場所の音でである。

しかしそれには正当なトレーニングを受ける必要があることと、膨大な時間がかかる。そのため最初にすることはやはり基礎語彙200か400の比較であり、大野氏はこれを飛ばしてしまった。おそらく見つからないのであろう。

もう一つはジョセフグリーンバーグの説で、日本語、アイヌ語、朝鮮語は他の周辺言語と一つのグループを作り、それが印欧語と結びつくという説である。これも90年代にアメリカの大衆科学雑誌に掲載されて話題を呼んだが、ほとんど正当な比較言語学の手法を無視した説である。そもそもアイヌ語も孤立語とされていて、日本語との同根語が余り見つからない。同じ音と意味のペアになる物の多くは道具の名前であり、東北地方の日本語からの借用である。そのように似ていない言語をいくら集めても、地理的に近いという特徴しかなく、共通の祖語を持っているわけではないのである。

ペルシア語の立ち位置

簡潔に書こうと思っていた本記事だが、やはり前置きがないと何のことか分からないので、前置きを書いた。日本には比較言語学を知っている言語学者はほとんどいない。私はハワイ大学マノア校博士課程で比較言語学のトレーニングを受け、マラヨ・ポリネシアン(のちのオーストロネシアン)語族の研究をされている教授陣の元、日本語の可能性について、オーストロネシアンやLISUという中国南部、ベトナムに住む少数民族、そしてチャムというカンボジアに住むムスリムの民族との比較を試みた。しかし、予想通り、同根語がそれほど見つからないのである。

その後、日本語教育に転向したのでしばらく考察する機会がなかったのであるが、遺伝子研究が描く、男性は船で南インドから来て、途中ベトナム江南で女性を拾って日本にたどり着いた日本人成立の設計図が事実とすれば、言語研究も先に進めると考え、グリーンバーグの説を掘り下げるのがもっとも答えに近いと考えるようになった。

というのも海のシルクロードが弥生時代には完成していたならば、南インドに中東から航海できるのは、アラブ・ヘブライと一部アフリカ言語のセミティック民族か、後にペルシアを築く印欧語族のアーリア人しかいないだろうということと、もし南インドから更にインドネシア、フィリピン、南中国にいくなら各所に通訳翻訳者がいて、彼らは自分たちの言葉をベースにした共通翻訳語をリングアフランカとして使うだろうと想定できるからである。

あまり言い方は良くないが、現代的に言えば各国の移住斡旋者がこうした港にはたくさんいて、複数の言語を操り、簡略化した言語で異なる民族間同士で意思疎通をしていたはずである。

そのように考えると万葉集に現れるころの日本語の中に、そうした通訳者が使っていた言葉が残っているのは普通に考えられることである。

その足掛かりとして目をつけたのが、現代の印欧語の分布では最東端となるペルシア語である。

念のため書くと、ペルシア王国は前634年には存在が確認されている。弥生時代の始まりは教科書に載っている昭和史観とは違って、現在では前900年ころとされている。その頃はペルシアはまだなく、同じアーリア人であるメディア人がイラン高原に定住し、やはり同じアーリア人であるスキタイ人などが遊牧を行って生活している。

本記事ではメディア人やスキタイ人が活躍した地理的空間を便宜的にペルシアとする。アーリア人としてしまうとほかの印欧語族のことも思い浮かべてしまうためである。

ペルシア語との比較

比較に適するのは万葉集程度の時代のペルシア語である。同一の時代はササーン朝ペルシアの時代(224-651)でそこで話されていたのはミドル・ペルシアンと呼ばれるものである。これは現代使われているニュー・ペルシアンにより近い。これより古いペルシア語はオールド・ペルシアンと呼ばれて、よりサンスクリット語に近い。オールドからミドル・ペルシアンになるときにサンスクリット語が持っていたような複雑な文法のほとんどが無くなった。

現代語であるニュー・ペルシアンは、8世紀にはでき上っていたと考えられる。記紀の時代である。イスラムが到達したため大量のアラビア語が流入するが、文法的には現代ペルシア語と同じである。一般的なイラン語の教科書では、イラン高原は交易の要所であり、多数の民族と交易する中でドンドン言語を簡略化したのだと記されている(浜畑 p.10)。具体的にどの言語と接したからどの文法が消滅したかの研究が待たれるところである。。

本記事では日本語古語、方言とをニュー・ペルシアンと比較する。また中国南部やベトナムで通訳の間に入ったと思われる呉越の子孫である広東語、福建語も必要な時紹介する

基礎語彙においては同根語と思えるものは多くはない。しかし興味深いものがある。

ぺ  日  広  福

yek ichi yat jit “one”

se san saam sa “three”

dah too sap zap “ten”

数字の1と3はこの四言語で非常に似ている。ちなみにサンスクリットとオールド・ペルシアンと印欧語祖語では、

サ  オ・ペ 印欧

eka- aeeva óynos ”One”

trīṇi θrayō tréyes ”three” dáśa dasa déḱm̥t “ten”

参照 Indo-European vocabulary, Wikipedia

日本語には他に「ひふみ・・・」と数える数字があるから、「いちにさん・・・とお」と数えるのは中国語からの借用であると一般的には考えられるが、ペルシア語の一が日本語と中国南部方言と同じだったり、十が日本語と同じだったりするのはどういうことであろう。形が似ているサンスクリットや印欧祖語を捨ててまで・・・考えられるのは三者が交易目的で同じ場所で接触をしていたということである。

機能語の著しい相似

形態的にも用法的にも以下のペルシア語の機能語が日本語に相似である。

①動詞の否定

動詞を否定するにはna-を動詞の前につける。

日本語 動詞+ない

➁まだ完了していない動作、状況を表す動詞にはmi-を語幹につけて現在形を作る

日本語 未 (未完成)

➂特定の目的語をフォーカスする際にlaをその名詞の後につける

日本語共通語には目的語「を」をフォーカスする助詞はないが、東北の宮城方言では「ば」を目的語の後につける。

あいづば学級委員にすっぺ 「彼を(彼出ないとダメ)学級委員にしよう」

④文で名詞を修飾するには間にkeを入れる。

日本語は修飾文が直接名詞にかかるが、制限的な用法として古語から「が」がある。「が」の後は名詞か形用表現が来る。文は通常「が」の後は来ない。

いばらの道を歩むが男の道/いばらの道を歩むがよい

?いばらの道を歩むが田中が目指していることだ

名詞と名詞をつなげるにはエザーフェと呼ばれるe(またはyとeの組み合わせ)を入れる。日本語は「の」であるが、広東語、福建語が興味深い。

㊄名詞の名詞に当たるe(エザーフェ)

ぺ 日 広 福

e no ge ee

広東語のgeも福建語のeeも修飾文と名詞をつなぐことができる。

⑥勧誘のbe-

一人称複数形の前にbe-をつけると勧誘になる。東日本では誘いの意味で動詞後に「べ」をつける。

図書館さ行くべ 「図書館に行こう」

㊆比較には形容詞の後にtarを付ける。最上級にはtariinを形容詞の後に付ける。

日本語では名詞の後に「より」を付ける。用言や文の後に付くこともある。

また、「足る」には「数、量が十分である。満ち溢れている」(p.553「講談社古語辞典」)という意味がある。

⑧名詞に-iを付けると形容詞を作ることができる

日本語は逆に「い」で終わる形容詞に「さ」をつけると名詞になると考えられているが、方向性が逆かもしれない。

大きさ(名詞)→大きい(形容詞)

古語では「おほきさ」(古事記)も「おほき」(古事記)も存在している。 (p.174「講談社古語辞典」)

㊈ペルシア語は基本的な動作を表す動詞であっても単独の語幹が無いものが多く、名詞や形容詞に”kardan”「する」”shodan”「なる」を付けて複合動詞としてあらわされる。

日本語では現代語は「勉強する」のように「する」を使い、古語では「す」が「漢語などについて複合動詞を構成することがある」( p.469「講談社古語辞典」)

⑩叙述文の現在三人称単数はastである

このastは印欧語祖語”hes”から来ている。 古英語の”is”である。 日本語の叙述は「す」が使われ、「ある状態・気持がある」 ( p.469「講談社古語辞典」)という意味である 。これはあまり数多くはない中での希少な日本語と印欧語との直接の同根語と考えられる。

⑪移動の目的地は前置詞beで表す

前置詞beは「~に、~へ、~で(手段や道具の「で」)」の意味があり、移動の目的地を指し、日本語の「へ」と同じである。

今後の調査

機能語について簡潔に見るだけでこれほどの音の形態と意味と機能が合致する機能語がペルシア語と日本語に存在する。従来のようなモンゴル語や朝鮮語と似ているという話は、文法的な機能が同じなだけで、音の形態が同じものを見出すことはできない場合がほとんどである。

中には中国南部方言と同様の音の形態と機能を持つ機能語が見つかることから、更に中国南部方言の基礎単語や道具や文化、制度を含む借用語についても比較検討したい。また従来日本語古語を知っている研究者は日本語学者や文学者であって、比較言語学のトレーニングを受けてなかったので、多言語との比較研究に参入できなかったが、このように南中国で印欧語と中国語方言そして倭人の日本語古語が接触していたと考えると日本語古語研究者が参入できる可能性が大幅に広がる。交易には商品は当然であるが、仏典や仏具、哲学なども時代的に含まれていた可能性があり、この方面の研究も大いに期待できる。

なお、本時期では便宜上ペルシア王国のペルシア人が交易をおこなっていたように記述してきたが、インド西岸にいたのは同じアーリア人のサカ人と呼ばれる元はイラン平原にいたが南下してそのままインド西岸に定着した部族である。彼らは仏教に帰依し、積極的に布教もしていたようで、ペルシア湾岸とフィリピン・インドネシアをつなぐ交易の主体はこのサカ人(サカは「鹿」という意味であり鹿を崇拝していた可能性がある(青木 p.35-36))だった可能性が高い。

今後は海のシルクロードとその担い手たちとその拠点に焦点を合わせることで、倭人がどのように日本語を形成していったかの詳細がよりはっきり見えてくると信じる。

なおこの記事は緊急性を重要視して、ペルシア語の例文などを記さなかったが徐々に付け加えていくつもりである。

参考文献

青木健『アーリア人』2009 講談社選書メチエ

植田信太郎 2009「古代中国人類集団の遺伝的多様性とその変遷ならびに生活史の解明

佐伯梅友・馬淵和夫編  1969 『古語辞典』講談社

浜畑祐子 2018 『ニューエクスプレス+ペルシア語 』 白水社

吉枝聡子 2011 『ペルシア語文法ハンドブック』白水社

Indo-European vocabulary Wikipedia 2024/08/05

Science Portal 『3万年前の航海、丸木舟で完遂 科学博物館チーム、台湾から沖縄・与那国島に到着

2024・8・5

神武天皇は実在した―地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第六回 ナガスネヒコは阿波出身者

今日はナガスネヒコです。ナガスネヒコは長脛彦などと漢字で書かれて、それはそれで石原裕次郎のような足の長い人だったんだな、とかっこいいイメージですが、古代は漢字はまだ意味を表さず、ただ音を表す当て字だったので、本当に足の長いかっこい男だったかは微妙です。

日本人のルーツと四国の状況

ナガスネヒコが何者かを考える際、日本人全体のルーツと四国にはどんなルーツの人々がいたかを考える必要があります。

誰でもご存知のように、日本には縄文人と弥生人がいました。縄文人の方は2万年前にはもう日本にいました。驚きですね。中国文明よりもはるかに古いのです。彼らは遺伝子的にはハプログループDというものに属していて、現在の日本人の35%の人がこの遺伝子を持っています。

ネットでは中国や朝鮮半島に多いと出てきたりしますが、嘘です、現在
Dが見つかるのは中東とアジアの辺境の地や諸島、そして日本しかありません。 チベット、インドのアンダマン諸島、フィリピンやグアムの一部、中央アジアやアフリカの北東部など、いかにも大陸の中央から追い出されたところに生き残っています。

元はアフリカを一番最初に出他グループなのでしょうが、後続するマレー系と漢人、他民族に押されて辺境に追いやられて、日本にも多数逃れてきたのでしょう。

弥生人はどんな遺伝子グループか

次の弥生人が曲者です。弥生人というまとまったグループがないのは最近の遺伝子研究からも明らかになっています。ここは詳しく書くと1記事軽く書けますので後ほど紹介します。今日は簡単に遺伝子のグループ名だけ書いておきます。遺伝子城異なるいくつかのグループが日本に到来したということだけ今日は知っておくとしましょう。

その一つは東南アジア・台湾から直接来たグループです(ハプログループO)。航海術に優れていて、東シナ海を縦横無尽に船で走り回りました。貿易も広く手掛けています。海が大好きで日本だけでなく、ハワイを通り越してイースター島まで行ってしまいました。

もう一つが中央アジアやアラブに多く、朝鮮半島や中国北方を経由してきた東アジア人のグループです(ハプログループC)。昔の小学校で習った帰化人のイメージはこのグループでしょうか。

今日の遺伝子の話はここで終りですが、四国にはどのような人たちがいたのかというと、元の縄文人(D)が住んでいたところに、わだつみの海の人たち(O)そして養蚕や縫製を得意とする呉越出身の(C)さらに稲作が好きな中国南部少数民族やラオス北部の人(O)が移住して住んでいました。

そんな簡単に日本に移住するな!と言いたいところですが、Oの人たちは貿易だけでなく、人間を運ぶ仕事もしていました。大陸で大きな紛争が起こるたびに、海辺に押し出された人たちは新天地を求めて、この日本に流れ着いたのです。 日本はハプログループDだけでなく、ありとあらゆる迫害・弾圧されている人にとって最後のユートピアだったのです。

黒潮に乗ると実に簡単に日本にたどり着くことを知っているわだつみの人たちは、それで一財産作って竜宮城という王宮まで作ったのです。

ナガスネヒコは長の国の王子

徳島では、海の人たちが作った国を「長国」(ながのくに)と呼び、養蚕やお米を作る人たち(天孫族)の国を阿波国と呼びました。最近新説として、美馬や池田町の方に第三の国があったという見解もあります。

長国は現在でも那賀町として今も名前が残っていますが、徳島の沿岸部および今の吉野川の河口あたりまで支配していました。延喜式に長郡、先代旧事本紀に長国と出てきます。

そしてこれは大国主の支配する国、出雲です。出雲は島根県ということに明治期にされてしまいましたが、出雲の風土記にスサノオも大国主も出てこないのは有名な話です。

出雲という名前につい反応してしまうかもしれませんが、長国は大国主とその子供コトシロヌシ(いわゆるえびす、えべっさん)の国で、阿南市にある式内社、八鉾神社(やほこじんじゃ。式内社)が総本山になります。

八鉾神社

この八鉾神社は非常に特別な神社で、陛下が代替わりされるとき、次の陛下が必ずお参りします。令和になる際も極秘で皇室の大事な方に参詣いただいたという噂があります。公式には今上天皇は皇太子だったころ平成三年に参詣されています。伊勢神宮などでもないのに、陛下が代替わりの際に来るなんて不思議ですね。

ここまで来ると勘のいい人はもう分かったでしょう。ナガスネヒコは長の国出身の重要人物なのです。

長の国の洲の根の王子

ナガスネヒコの名前は、この長の国の洲にルーツを持つ王子となります。根という字は、阿波倭論ではルーツを持つ、という意味になります。出生地を表しています。根のつく御子や陛下は多いので、どこの出身かよくわかります。

尊や彦の皆さんの名前は中二病でついているのではなく、ちゃんと出身や系譜を示すようにある時期まではつけられています。

それでナガスネヒコは徳島沿岸部の島の出身であることが分かります。徳島の鳴門のあたりは渦潮で航海がむずかしいですが、南に下がればまあまあ穏やかな海です。現代でも徳島市沖洲から和歌山の北部へ大型フェリーが出ています。徳島から大阪南部にある関西空港に行くのに便利なフェリーです。鳴門の渦潮の方などけっして行きません(笑)。

ナガスネヒコの一族は天孫族が大阪南部に移住するだいぶ前に大阪南部と和歌山北部に進出していたのです。

そしてナガスネヒコの父母の系譜は古事記にも出ていませんが、おそらく大国主なのでしょう。後から来たニギハヤヒにすぐ帰属して妹を差し出して親族関係になったのも、元々大国主の一族だから先祖がそうしたのと同じことをしたのでしょう。

ナガスネヒコの妹は登美夜毘売(とみやびめ)、あるいは三炊屋媛(みかしきやひめ)という名前で、やはり毘売となっていますから、立派な大国主系のお嬢さんだったのです。

ナガスネヒコの系譜が不明なのは物部氏の没落のせい

登美夜毘売(とみやびめ)はニギハヤヒと結婚してウマシマジを生みます。このウマシマジは物部氏の先祖になります。

物部氏が書いた先代旧事本紀では神武との闘いが詳しく書かれていますが、古事記ではあっさりと書かれています。ナガスネヒコが戦いに負けた後どうなったかも古事記では書かれていません。 先代旧事本紀ではどうしても考えを変えられなかったナガスネヒコをニギハヤヒがやむなく殺して戦争を終わらせたことになっています。

古事記ではなぜいろいろ省略されていて、 先代旧事本紀 では逆に悲しい結末がかかれているのでしょうか。ご存知の通り、物部氏は後に蘇我氏と対立し、勢力を削がれて弱体化してしまいました。朝敵とまではいかないものの、その後あまりパッとしなかった一族です。いろいろと表に出てくると困ると朝廷は思ったのでしょうか。

物部を逆賊と考えるなら古事記にナガスネヒコはニギハヤヒにやむなく殺されたと記述があってもいい気がします。物部氏の後裔が自分たちのルーツを隠すなら 先代旧事本紀 のほうこそあいまいな書き方がされてていい気がします。

逆になっているということはそれなりに、物部氏は蘇我氏にやられても権力を維持していたということでしょう。少なくとも古事記編纂の時期まではそうなのでしょう。それでナガスネヒコの最後を削除させたのかもしれません。

物部氏の後裔はナガスネヒコを殺されたことを恨んで 先代旧事本紀 にちゃんと書いた、ということなのでしょう。

さて、ここまで書いて結構長くなってしまったので、次回はナガスネヒコは生きていた!?んなアホな?という話を書きます。

前記事 神武天皇は実在した―地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第五回 鳴門の渦潮で苦労した神武天皇

神武天皇は実在した―地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第五回 鳴門の渦潮で苦労した神武天皇

色々な阿波神武説

神武天皇が阿波に実在したということを阿波倭論から考証しています。神武天皇は阿波に実在していましたが、東征については阿波倭論者の中に異なる考えがあります。

まず、一番「ええええー?」と思うのが、神武天皇はただ阿波の中で戦ったというものです。つまり彼は四国から出て行かなかったのです。この論者はさらに古事記に書かれていることは全て四国で起こったことだと考えています。

阿波倭論者の先駆者たちの多くがこのように古事記で起こったことのほとんどが四国の中だけのことだったと考えています。私も結構参考にさせていただいている笹田孝至氏『阿波から奈良へ、いつ遷都したのか』(2012)株式会社アワードなどもこの考え方です。

この論では白村江の戦いで日本が負けるまで、都はずっと阿波にあったというものになります。白村江の戦いで倭が負けた結果、もっと国力をつけるため(というか見た目のハッタリ力を増やして外国に侵略されないようにするため)大掛かりな都を近畿に作ったという話です。

私も最初は「ええええー?」と思ったのですがそうなのかもしれないという論証が徳島だけを見る限りあるような気がします。結構な数の阿波倭論者がこの説に立っています。ただかなり阿波の地名に詳しくないと若干つじつまが合わないところがあるのと、ではそれまで近畿や中国地方は開拓しなかったのか、という謎が残ります。

つまり大阪や神戸、前回紹介した十代崇神天皇の代の岡山の帰属(桃太郎の鬼退治の話)など、うまく説明できないことになってきます。こうした土地はいきなり600年代に帰属したわけではないでしょう。

それで私は、とりあえず、神武は一度四国から出た、という論を支持しています。四国を出たものの、古都としての阿波は残り、二代目天皇から応神天皇のあたりまでで、奈良京都ではなく、大阪、兵庫、岡山、山陰あたりをまず帰属させたという考えに立っています。

応神天皇あたりまで、阿波と近畿、あるいは四国の他の地域(私は香川の白鳥もこの時期都だったと考えます)と大阪で二都あった、あるいは緩い瀬戸内海連合があったと考えています。

ですのでここからの話はこういうとりあえず神武は四国を出てみた、という論の考証になります。

鳴門の渦潮が手ごわかった

鳴門の高島に宮を構えた神武です。海を見ています。海の向こうには大阪の難波(なみはや)がありそこは広い平野があるという情報を得ています。

誰から得たのかというと先にあっちに行ってしまった天孫族からです。すでに実は天孫の一人、「饒速日の尊(ニギハヤヒ)」が難波に上陸していたのです。四国を出た天孫族は神武が最初ではないのです。

神武が大阪に上陸するとナガスネヒコというニギハヤヒに仕える地元の人間が戦いを仕掛けてきます。その戦いの途中で、ナガスネヒコは、「なんで天孫が二人いるんだ?自分は既に最初に来た天孫に仕えているぞ。お前は誰だ、天孫である証拠を見せろ」と問い詰めます。

ナガスネヒコの話はとても興味深いので、また次回にしますが、神武が東征する前にすでに大阪に天孫族が住んでいて領土をもっていたのは衝撃的ですね。

ただし、神武はニギハヤヒを知らなかったようです。古事記を研究する際に脇に置いておくと便利なのが「先代旧事本紀」という物部氏が書いた本ですが、ここでは、神武もナガスネヒコもニギハヤヒも神武が阿波から来てびっくりした!という描写があります。

噂では聞いたが、実際天孫族が既にいたのを知らなかったことから、神武はこういうと申し訳ないのですが、天孫族の傍流なのではないでしょうか。

本家はさくっと海を渡って先に難波に行ってしまっていました。一方で神武はどうやって鳴門の渦潮を超えていくかすら分からず、考えあぐねていました。

古事記で速吸の門として出てくるのは鳴門の渦潮です。その流れの速さは渓流の激流くらいあります。鳴門の対岸の淡路島南端にある「道の駅うずしお」の裏手に降りていくと、渦潮を目の前で見ることができます。

ちなみに渦潮は一日に二回出来ます。その前後海流が激流に変わります。すごいです!!小舟なんか浮かべたら木っ端みじんでしょう。神武もさすがにビビったでしょう。なにせここはあのイザナギもビビッて禊を「もっと流れの緩いところにしようかな」なんて言わせたところです。

うずしお攻略の達人珍彦(うずひこ)登場

ところが都合よくここに渦潮のことをよく知る人物が現れます。その名も珍彦(うずひこ)!ベタな名前です。そのまんまです。

おそらく渦ができる時間帯をよく知っていたのでしょう。彼の手引きで神武は鳴門を離れて難波に到着します。

途中の経路はかなり端折っていて、まず淡路島に行ったのではないかと思いますが、そう書くといろいろバレるので、あえていきなり難波に到着します(笑)。古事記編纂者も大変です。

これだけの大手柄を演じた珍彦。彼を祀る式内社はどこにあるでしょうか。一応公式には兵庫県の保久良神社(式内社)ということになっていますが、徳島にはないのでしょうか。

徳島の鳴門にある宇志比古神社が珍彦を祀る式内社

私はかねてから宇志比古神社(式内社)という鳴門市にある神社が気になっていました。

宇志比古神社

宇志比古なる人物は古事記に現れないからです。近所にあるのでもう何百回も神社の前を通ったのですが、ウィキペディアで見ると宇志比古は岡山方面を平定した四道将軍の一人などととんちんかんなことが書いてあります(もっともそれはそれですごいのですが)。

ずばり、この宇志比古神社は珍彦を祀る神社なのではないかと思っていました。うしというとスサノオを想い出す人もいると思いますが、それなら八幡神社になっていたはずです。実際、混同があったのかこの神社は江戸時代は八幡宮だったようです。角川地名大辞典36徳島県では祭神は宇志比古と八幡神(スサノオ)となっています。明治期に宇志比古神社になりました。

先に上げた笹田氏の著作に珍彦は「景行紀」では「うじひこ」と呼ばれていると書いてあります。笹田氏もここが珍彦をまつる神社と考えていて、近くにあった西山谷古墳2号墳という奈良の古墳のモデルになったと考えられる古墳が珍彦の墓であるとまで言っています。

西山谷2号墳は道路工事で消失しましたが、石室は完全に保存され、そっくりそのまま県の埋蔵文化財センターのレキシルに移設されていますので誰でも珍彦さんに会うことができます。

西山谷2号墳石室移転展示

彼は物語ではわき役ですが、実は日本国を作るのにかなり大きな役割をしていました。古事記では珍彦はいきなり倭の国造に任命されてしまいます(笑)。先代旧事本紀では大和(奈良)の直部(国造)になっています。

阿波倭論では、倭は阿波、大和や大倭は奈良というように明瞭に分けています。神武東遷後、大倭(奈良)をバリバリ開拓したのはこの珍彦だったようです。

実際は、 国造の制度ができたのはまだだいぶ後のことなので、珍彦の子孫である、大倭氏が開拓したのでしょう。

阿王の墓が神武の墓、そして西山谷2号墳が珍彦の墓。どんどんすごい話になりますが、鳴門近辺を転々としていた神武ですから当然のようにこの地に生きた証が残っているのです。

次はナガスネヒコの話です。私はナガスネヒコが個人的に大好きなので、深堀りしていきます。

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神武天皇は実在した―地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第四回 徳島の沿岸を放浪した神武天皇

鳴門市の数か所で本拠地を移した神武

藍住町(筑紫のヒムカ)でアヒラヒメをお嫁さんにもらった神武は隣接する今の鳴門市の大麻町というところを中心に都を移していきます。

大麻町には古墳時代最初期の前方後円墳と考えられる萩原古墳群など実に多くの古墳が見つかるところで、古墳のメッカとでもいえるところです。古墳マニアの皆さんもしまだ来たことがないならぜひ来てみてください。

特に萩原古墳群と呼ばれるところは近畿の古墳の先駆けとなったところです。弥生時代末期の建造です。近畿の古墳の先駆けなのに、近畿の影響を後に受けましたとは言えないはずです。考古学会も早く目を覚ましてほしいものです。

萩原古墳群

これらの古墳群は緩やかな丘陵の斜面にあり、足元には船が航行する川が流れ(海もまだ深く陸地に入り込んでいました)航行する船の目印になっていたようです。

神武がヒムカから次に移ったのは、筑紫ですが、当時筑紫は阿波の海岸沿い全般を指す地名だったようです。これはイザナギが黄泉の国を訪れた後、禊をしたのが、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で、これは徳島市より少し南にある阿南市の橘というところと、阿波論研究者は比定していていわば阿波倭論者の間では常識となっています。

ところで神武が藍住町からいきなり南の阿南市に遷都するのは難しいと思います。私も神武は阿南に行ったのかなと多少は思うのですが、当時の地形を考えると難しそうです。

藍住町と阿南市の間には今の徳島市や小松島市がありますが、山がちな小松島市はさておき、徳島市はほとんど海の下でした。徳島市の県立図書館があるところはすでに多少標高の高い丘陵地ですが、その周辺に「浦」と名前のつく地名が多数残っています。海水はこの辺まで上がっていた証拠です。

徳島の80%は山ですが、当時は海がかなり内陸部に入って来ていて、さらに吉野川をはじめとする大河が頻繁に氾濫するので、人々は皆、水害を恐れて丘陵地に住んでいました。

ここは試験に出る大事なポイントです。倭の人々は山の人なのです。だだっ広い平城京や平安京を都と思う現代人は分からないかもしれませんが、徳島の人が奈良や京都に行って思うのは、ほー、こっちにも婆ちゃんの集落に似ている山があるなあーということなのです(笑)

藍住から川を超えて山を越えて阿南にたどり着くのはかなり疲弊するので、宮を造営するのは難しいのではないかと思います。それよりは藍住町から地続きというか完全に目の前の鳴門市大麻町に引っ越すのが現実的です。

さて、話がいきなり阿波倭論の核心に入ってしまいましたが、話をさきほどの筑紫に戻すと「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」とだんだん範囲が大きいところから小さいところになっていきますので、おそらく鳴門市も昔は筑紫の一部だったのでしょう。

鳴門市大麻町を中心に転々とする神武

次に彼は豊国の宇沙へ、そして、筑紫の岡田へ移ります。宇沙という地名は徳島にありませんが、ここで古事記編者はぼろを出して、「豊国の」などと律令以降の地名を挿入してしまっています。神武の頃に「豊国」がありましたか(笑)。古事記はできる限り忠実に読みますが、ときどき史実ではない700年頃の古事記「解釈」が挿入されています。

次の岡田はこれまた大麻町と隣接する、藍住町からは買い物自転車で行ける板野町の「岡上神社」(おかうえじんじゃ)の足元の板野町大寺字岡山路のあたりに移ったと考えます。この神社は延喜式内社です。豊受姫命を主宰神としています。由緒正しい神社で源義経も参詣しています。義経は軍神のところを参詣していますので、今は食べ物の神様である 豊受姫命 を主宰神としていますが、元は神武だったのかもしれません。

ここの近くはまた古墳のメッカで黒谷川郡頭遺跡(くろだにがわこうずいせき)があります。阿南の若杉山で採れた辰砂(水銀朱が含まれる石)を精製して朱を作っていました。「その山に丹(朱のこと)あり」と魏志倭人伝に書かれているので、邪馬台国が阿波にあったのはゆるぎない事実です。

このすぐ近く、板野町大寺字亀山に「阿王塚古墳」と呼ばれる古墳がありました。現在「御聖天山」(ラノベのような凄い名前ですね)と呼ばれ、亀山神社となっています。出土遺物もあって、平縁神獣鏡2面、鉄剣5口、鉄鏃が出たのですが、宮内庁に持っていかれてしまいました。

出てきた出土品からして、まさに「我武神」(漫画のキングダムですか!?)という感じの方の古墳です。私はこれが神武天皇の墓ではないかと思うのですが、「阿王」が誰なのかについてはサルタヒコだとか忌部氏の誰かだとか、いろいろ考えられるところです。サルタヒコは芸能、忌部氏は宮廷儀礼のほか養蚕や縫製に関わっていたので、「我武神」なのは神武しかいないのではないかと考えています。

しかし阿南市にも岡という地名があり、そこも岡山と呼ばれる円墳があります。埋蔵物が何なのか気になるところです。

そこから阿岐のタケリというところに移ります。現代古事記解釈者は広島県の安芸郡だろうとしています。しかしタケリが見つかりません。そもそも全国にタケリという地名は一つも残ってないようです。

ところが阿波論だと、 阿岐と書かれているだけで、これは阿波のどこかだな、と思うわけです。 阿岐が阿波岐の略だとするとまたしても阿南のような気もします。 しかし「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」を厳密に読むと、「徳島沿岸の藍住町の橘の小門の阿波岐原」となってしまい、ひょっとして橘は藍住町にあるのかとも思いますが、阿波倭論の大先生たちに怒られてしまいそうですので、悩むところです。

このように神武の本拠地は阿南か鳴門か悩むところですが、もう少し考えるとやはり藍住町に隣接する大麻町と板野町なのではないかと確信が持ててきます。

続いて吉備の高島に移りますが、吉備(笑)。また700年頃の古事記解釈者が勝手に挿入した地名です。「吉備」が当時ありましたか。吉備が倭に加わったのは桃太郎の鬼退治で有名な吉備津彦が活躍した第十代崇神天皇の時です。

岡山市にある備中の一宮である由緒正しい吉備津神社の縁起にそう書かれています。

吉備津神社

700年の古事記解釈者はさりげなく、当時の解釈を盛り込んできます。「吉備」は神武の頃存在していないのです。

そうすると高島は鳴門の高島になります。塩田だった場所として有名な島ですが、有名な古墳がないようです。徳島の高齢の地元研究者によると、鳴門は80年代から道路や橋をガンガン作り始め、ちょっとでも掘ると埋蔵物や人骨がぞろぞろ出て来て、それを県に報告すると工事がストップするからただ海や谷間に捨てていたそうです。

高度成長期です。古いものは何でも破壊しました。徳島県民はさらに新しいものが好きなんだそうで、当時は誰も心が痛まなかったのでしょう。ポイポイ偉大なご先祖様を谷間や海に捨てました。

基本的に吉野川の北岸丘陵地は掘れば掘るだけドンドコ出てくるところで、その延長にある鳴門市の高島や大毛島で出ないはずがありません。しかし土建屋さんにやられてしまったのです。

現在ではある程度の大きい土建工事をするときは、埋蔵物がないか予備調査をすることが義務付けられています。そのため、歴史的大発見に至る埋蔵物が徳島でガンガン見つかっています。

昭和の時代に古都は近畿か九州のような誤った概念が広まって今に至るのは、徳島の土建屋さんがぽいぽい埋蔵物を捨てて古墳を破壊していたからなのです。

そしてもう一つ何か凄い物が出てくると、宮内庁に持っていかれてしまってどこにあるか分からなくなってしまったからです。

この二つのせいで古都徳島の本当の姿が見えなくなってしまったのです。

さて神武は鳴門の高島にたどり着きました。東岸にあるはずの大阪南部を見据えてそこからどう攻略するか「我武神」らしく作戦を練りに練ったことでしょう。

次はいよいよ神武が瀬戸内海を渡るところからスタートします。

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神武天皇は実在した―地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第三回

神武天皇すら実在しないと思い始めた日本の知識層

見える物を見ないで、見えない物が見えると言い続けていると結局自己矛盾に陥り、その対象自体を考えるのが嫌になってしまいます。

邪馬台国研究もすでに阿波論以外の人はギブアップした感がありますが、天皇のルーツをたどる場合もそうです。

イザナギ・イザナミからトヨタマヒメ(古事記上巻の範囲)は神話であって、実際の歴史ではないということで、相当多くの人が納得していました。また、二代から九代までは欠史八代と言われていて、実在しないと言われていました。崇神天皇も怪しい、神功皇后も朝鮮半島を征伐したなどと荒唐無稽な神話の世界だということで、倭五王として中国の宋書や梁書に出てくる履中天皇あたりから実在の天皇ではないかという話になっています。

そして遂には初代の神武天皇もいなかっただろう、という話になりつつあります。そんな書物を見たことのある人もいるでしょう。

神武天皇が架空の人物ではないかという根拠は、神武天皇が、大阪南部に進出するいわゆる神武の東征の前に住んでいたところが、「日向」すなわち、多くの人が宮崎県の日向(ひゅうが)だと思っているからです。

宮崎県だと何がまずいかというと、まだこの頃は大和朝廷に従属しない熊襲の皆さんの国だからです。大体北九州のごく一部を除けば、甕棺墓文化という近畿や四国中国では見られない独特の埋葬形式を持った別民族の皆さんが九州の大部分に住んでいたのです。

これはまずい、そうなると神武天皇は熊襲出身ということになってしまう!ということで、この件はタブーとなり、タブーにしておくだけでは皇室の名誉を保つのに足りないので、神武天皇は存在していない、神話の人物だということになりつつあります。

もう少し詳しく古事記や日本書紀を読んだ人がこれはおかしいなと思う点は、彼は東征するにあたって、

〇海は一回しか超えていない。いつどうやって福岡—山口間を渡ったのか

〇高千穂を出て、なぜか宮崎の日向、北部の筑紫、広島のタケリ、吉備の高島とそれぞれ何年か住んだ後、海を渡って大阪の「南部」に侵入した。

〇そうした本州を長い間移動していた際、神武に対して一切の反乱や抵抗が起きていない。

〇最初の進入では現地のナガスネヒコに返り討ちに会い、敗走し、また出直して今度は和歌山から侵入し北上し、ナガスネヒコを討った。

〇大阪近辺ではナガスネヒコだけでなく、ありとあらゆる部族が抵抗した。

これだけ読んでも実におかしいことになります。どういうことかというと、

◇九州と山口の間にも海がある。しかもかなりの難所で簡単にわたることはできなかった。

◇神武の頃、本州の中国地方、四国地方をすんなり通れるほど西日本が統一されていたとは考えられない。まして九州の王がのこのこ出てきたら返り討ちに合うはず。

◇いったん負けて敗走し体勢を立て直すにしても、また九州まで戻ってもう一度出てきたのだろうか?そんなことをしたら戦費も犠牲も多くなるはずである。和歌山に陸路で下がったにしても熊野は現在でも分かる通り歩くのが大変なところで、そんなところに歩いて撤退したら全滅するのではないか?

◇大阪の周辺ではなぜものすごい数の部族が抵抗したのか?

と普通に考えれば疑問がわいてきます。更にツッコミを入れたい場合は、ナガスネヒコの話を深堀りしていくことになりますが、とりあえず、ここまでで神武が九州から来たという話にするとおかしいことになってしまうというのは分かってもらえたと思います。

実は神武天皇とその奥さんアヒラヒメは阿波の人間だった

ところが神武天皇が阿波(徳島)の人で、東征をスタートしたのも徳島から、ただ向かい側の大阪南部に出て行っただけ、と考えると実に上記の謎がスッキリ解けます。

そんなバカなと皆さん思うと思うので、外堀をじわじわ埋めていく方法で議論していきます。

まず神武天皇の最初の妃の名前は古事記では 阿比良比売(あひらひめ) 、日本書紀では 日向国吾田邑の吾平津媛となっています。

日向にいた時にもらったお嫁さんだから、まあ、そうでしょう。ところが、アヒラヒメが祀られている神社は徳島県藍住町の伊比良咩神社(いひらめじんじゃ) しかないのです。全国で唯一です。

普通、八幡神社など見れば分かる通り、人気のある神様は全国いろんなところで祀られますが、アヒラヒメが生んだ息子は、皇位を争い、二号さん(と言って良いのか・・・分かりやすく現代ラノベ風にしています)の息子さんたちに討たれて、長子だったのに二代目天皇になれなかったのです。

すなわち反逆者のお母さんになってしまい、全国で非常に不人気で、これは生まれたところ以外は祀れないということになったのでしょう。

今はゆめタウンという大型のショッピングモールがあって、徳島の中でも比較的人口の多い藍住町。昔は吉野川水系やあるいは河口にかなり近かったようで、戦国時代にできた藍住町の勝瑞城(しょうずいじょう)からは海にすぐ出て行けたようです。細川氏や三好氏はこの勝瑞城を本拠地としていました。

ということで、今の藍住町は当時は日向(ひむか)の吾田(あた)とよばれていたところだったのです!

長髪比米の日向

もう一つ、日向は日向ではなくて、阿波論でいうひむか、という阿波の地名だったことを裏付ける話に日向の髪長媛(かみながひめ)の話があります。

日向の髪長媛は応神天皇に見初められたお姫様です。応神天皇も阿波、特に藍住町に深く関係のある天皇でしたが、それは置いておいて、日向の髪長媛との出会いは次のような話です。

日本書紀 巻第十 (應神天皇)
十三年 秋九月の条に

〔一(ある)は云う、-中略-始めて播磨に至りし時に、天皇(すめらみこと)淡路嶋(あはぢのしま)に幸(いでま)して遊猟(みかり)したまふ。是(ここ)に天皇(すめらみこと)西(にしのかた)を望(みそなは)すに、數十(とをあまり)の麋鹿(か)、海に浮きて来り、便(すなは)ち播磨の鹿子(かこの)水門(みなと)に入る。

伊佐爾波神社より引用

これを簡単に言うと、「兵庫県に応神天皇が初めて行ったとき、淡路島に出て来て、西の方を見てみると数十の鹿が海に浮かんでこちらにやって来た」というものです。

淡路島から西を見て、果たして宮崎県が見えるのでしょうか!?淡路島から西を見てもらえば見えるのは鳴門しかありません!高松や小豆島も見えるでしょうけども(笑)。

いずれにしても絶対に宮崎県は見えません。日向(ひむか)を宮崎県のひゅうがだというのは、後の古事記解釈者の後付けなのです。

なお、引用させていただいた 伊佐爾波神社 は四国の愛媛にあります。門にはこの時の情景を示す波を泳ぐ鹿が彫られています。髪長媛もまた四国のお姫様なのです。

このようにアヒラヒメや髪長媛は四国の人間で、日向はひゅうがなどではなく、ヒムカという今の藍住町に実在した場所だったのです。

さて、ここまでで日向はひゅうがではなく、徳島県のひむか=今の藍住町だということが分かりました。

来週は東征の前に一体どこを神武天皇はうろうろしていたのかを紹介します。

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地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第二回

見えないものが見え、見えるものが見えないのはおかしい

前回、邪馬台国が見つからないのは、思い込みとタブーと認めたくない病のせいだと書きました。

今日は思い込みについて書きますが、実に思い込みというのは恐ろしいものです。

思い込み合戦は江戸時代から

邪馬台国が見つからないのは江戸時代の本居宣長や新井白石といった初期の邪馬台国研究家から綿々と続く思い込みのせいです。中国の史書に出るほどの国だから、奈良や京都のような近畿地方にあったに違いないという思い込みと、九州からも遺跡が見つかるのだから九州に違いない、という思い込み。どちらも意地を張って素直に自分たちは間違っていると認めません。

特に近畿説は、邪馬台国にたどり着く道程に出てくる方角を90度捻じ曲げて、南に行くところを東だ!といってごまかします。しかし90度捻じ曲げたせいで、邪馬台国の東にも倭人の国がたくさんあると書かれているのに、東が北になってしまうと都合が悪いので、それは捻じ曲げる必要なく(関東のような)東だ!と持論を自分で破たんさせています。

九州説も方角についてはあいまいなところがあり、一旦九州に上陸したのちどこかまた水上を行くのに、それはないことにしたりしました。九州説は東に中国四国近畿地方という倭人の国があるので、近畿説よりは若干有利です。

近畿説は、暖かい地方のことを言っている動植物の描写を無視します。九州は暖かいのでそうかもしれないと思えないこともないでしょう。

しかし、山口と接触している北九州を除いて九州は甕棺墓が普通です。それからまた北九州を除くと、いわゆる熊襲の国として長らく倭と対立していました。そのため、邪馬台国は九州土着の女酋長が治めた国だなどという珍説に落ち着かざるを得ませんでした。

70年代に出た邪馬台国、卑弥呼の本を私も何冊か持っていますが、その中で70年代に邪馬台国について書かれた本が既に百数十冊もあると書かれています(『女王卑弥呼99の謎』樋口清之 産報ジャーナル 1977)。

これだけ多くの、少なくとも普通の人よりもたくさんの労力と時間をかけて丁寧に調べた皆さんが、邪馬台国は近畿か九州にあるはずだという思い込みのせいで、真実にたどり着くことができなかったのです。

ただ魏志倭人伝をそのまま読めば、これは四国なんじゃないか?とすぐ分かったのですが・・・

四国の調査が遅れていたという事実はある

しかしこれにはやむを得ない事情もあるかもしれません。明治以降の四国の多くの人は新し物好きで、古いものに興味がありませんでした。

年配の方から聴きましたが、90年以前は道路工事などで古墳や人骨が出ると厄介なものが出たということでそのまま捨てていたそうです!

鳥居龍蔵という立派な考古学者、民俗学者も輩出しましたが、彼も徳島で出たものを中央のどこかに持っていってしまいました!県内に残っていません。

しかし、90年代から埋蔵物に対する意識も変わり、一定規模の道路工事や建設をする際は予備調査をすることになりました。すると出るわ出るわ・・・

大判小判がざっくざく(笑)

余り大判小判の話は聞きませんが、銅鐸などはバンバン出ます。人骨もバンバン出ます。箱式石棺と呼ばれる埋葬法でバンバン出ます。この箱式石棺こそ、魏志倭人伝の言う、郭のない墳墓です。もしこれがカメに入っていたら、必ず中国人は奇異な風習として記録したことでしょう。

昔からある程度古代史が好きな地元民には知られていたもので、ちゃんと調査され直したものもあります。弥生時代終わりからの日本で唯一の辰砂の採掘坑である阿南市の若杉山辰砂採掘遺跡などそうです。「その山に丹(辰砂のこと)あり」と魏志倭人伝に書かれています。

80年代から、阿波(徳島のこと)はもしや、飛鳥以前の古都だったのではないかと思った地元の方たちが本を書き始めました。

そうしたものは後にまた紹介していきますが、地名や寺社に伝わるいわれ、古事記上巻に出てくる神々を祀るユニークな式内社の存在など、次々と明るみに出てきました。

特に大ヒルメ(アマテラスオオミカミ)の墓がある式内社、徳島市の八倉比売神社の存在。これはすごいものです。そしてもう一社、崇神天皇の時代に疫病が蔓延し、アマテラスと一緒に祀るとよくないということで、アマテラスの方が他地方(伊勢)に移ることになってしまって、阿波に残った美馬市の倭大國魂神社の二つが存在します。この二社はこれ以上ない阿波が飛鳥以前の古都だったことの証拠でしょう。

邪馬台国ではなく「やまと」だった

邪馬台国を見つけるのを不可能にしたのはその名前です。やま、の二文字まで合っているのですから、もうこれは「やまと」だろう、と思うところが、なかなかそれが認められず、幻の(架空の)ヤマタイコクを追い求めてしまいました。

しかし、中国の後漢書には107年に倭が使者を送ったことが記されていて、それを解説した通典(801年)では「倭面土」と国名がなっていて、日本書紀を解説した日本書紀纂疏(1457年)でも「 倭面土 」となっています。

すなわち、中国に使者を送っていた国は「やまと」 (イェバットーのような発音でしょうか) と発音される国だったのです。

本居宣長は傑作で、通典に「倭面土地升等獻生口 」と書かれているのを見て、「面土地」の三字は意味が明らかでない(『日本国家の起源』井上光貞 岩波新書 1960)などと言っていました。

しかし素直に読めば、「やまとの地の国王(と)師である升 らが奴隷を献上した」と読めるはずです。 「面土地」 などという変なところで切る必要はないのです。 師 は軍師のことでしょう。等と複数になっているので、国王と軍師の「升」が送ってきたのです。

これは普通に読めば、それ以外には読めません!それを本居宣長ほどの人物が、思い込みのせいで、「倭」はそれだけで「やまと」と読むから、残りは 「面土地」 で何のことか分からない!?と言っていたのです。

倭はそれだけだと、イとかワイとしか読めませんし、まして大和はダイワとしか読めません。中国人にこれらの漢字はなんと読むか聞いてみれば「ヤマト」と読む人はただの高度な日本通でしょう(笑)中国人は発音を正確にするため 「倭面土」と書いて「やまと」と聞こえる音の通りに書いていたのです。倭の一字は略称であり、若干蔑称の意味で使われていたのでしょう。

本居宣長の例はここまでくると滑稽を通り越して、悲壮感さえ漂います。

素直な四国倭邪馬台国論を完成させるために

このように江戸時代から激しい思い込みで何も進まなかった邪馬台国の研究ですが、ついに畿内説、九州説双方とも破たんして、どうでもいいや、という風潮になっています。最近誰も邪馬台国について語りません。

ぜひ、まだ邪馬台国に興味がある学者は四国、特に徳島に来てもらいたいものです。鳥居龍蔵の頃など学会のタブーが以前は強かったようですが、若杉山辰砂採掘遺跡のおかげで、タブーもなくなり、いよいよすべてが明るみに出ようとしています。

ぜひ素直な四国倭邪馬台国論を完成させるために皆さんも四国に足を運んで実際に目で見て感じて行ってください。

次回は、思い込みの実例の一つとして、神武天皇のことを書いていきます。神武天皇も元は阿波の人です。んなアホなと思うかもしれませんが、来週をお楽しみに。

前記事地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第一回>はこちら

地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張 第一回

「地理で見る阿波倭・邪馬台国の発展と拡張」というタイトルで、10カ月ほど記事を書いていくことにしました。

すでにアマゾンのKindeで「Q&Aでよくわかる!! 阿波倭邪馬台国論入門 Kindle版」という本を出していますので、このテーマに初めて触れる方は、ぜひこちらをお読みください。

1週間に一度程度記事を追加していくことを目指しています。10か月後にまとめて、新しいアマゾンのKindle本に仕上げていこうと思っていますので、この記事は草稿のようなものです。誰も読む人がいないとなかなか筆が進まないのです。メルマガで出そうかとも思いましたが、最近、自分の書いている物は自分のところに集約して管理しようと思っているので、この自分のHPで発表していこうと思います。

ところで、邪馬台国については90%程度、初期の倭王朝については80%程度の確実さで、徳島県を中心とした四国にあった、ということで間違いないと思います。

特に邪馬台国については、「徳島県を中心とした四国にあり、西部山口と福岡北部は協力関係にあった。以上、おしまい」と非常に短く終わるのですが、なかなかこの事実が全国的に受け入れられるところまでいきません。

しかし、魏志倭人伝の描く邪馬台国は近畿にも九州にもなかったことはうすうす現代の研究者は分かっているようで、もう邪馬台国論争のようなものが起こることもなくなりました。

少なくとも次の四点から、四国にあったのは事実であり、それを覆すことはできないのです。

(1)邪馬台国にたどり着くには、九州に上陸した後、再び水上に出て、さらに長期間歩く。九州ではない。

(2)暖かい地域であると書かれていて、動植物も暖かい地域のものを指している。海女の文化やアワビ、ミカンと思われるものが出てくる。奈良や京都ではありえない。

(3)その山に丹(辰砂)を採掘する山があると書かれていて、徳島県阿南市の若杉山辰砂採掘遺跡以外にこの時代辰砂が出る採掘所はない。

(4)葬儀の形式が箱式石棺と呼ばれる四国と一部瀬戸内海地域にしかない葬儀の仕方である。甕などに入れない。甕棺が主流である九州の勢力ではない。

これだけでもう十分で、こうした証拠を覆すことはできないのです。現在徳島県民のほとんどが、邪馬台国は徳島の山上にあったという話を当たり前のように思うところまで来ています。

思い込みとタブーと認めたくない病のせいで間違った論争に

しかし日本のアカデミックな場では、邪馬台国は四国にあった、などと口に出してはいけないようです。そもそも邪馬台国の話すら、最近はほとんど聞かないように思います。書店でも新刊は出てこないようです。

どうしてこうなったかというと、やっぱり間違ったことを言い続けるのは学者も辛いからでしょう。例えるなら、最初に問題を設定する際に間違ったのです。鯨を探すのに、池や川を探して、理由をあれこれ考え、池派と川派で論争までしていたのですから、大変な間違いでした。

しかも日本人最高の頭脳を持つような方たちが 池派と川派で論争をしていたのですから、恐ろしいことです。誰か、そうじゃない、海を見ろ、目の前に鯨は居るだろ!!と言えば良かったのです。

鯨を例えに使ったのは、高知県では鯨を見ることができるからです。意外にこのことは知られていないと思います。鯨を見に、ハワイまで行く人が多いですが、これからはぜひ高知県に行ってください。

実は黒潮に乗れば、暖かいところの物や人まで四国に届いてしまう・・・ここから更にぐんぐん、千葉県や東北まで行けてしまう、という事実をなかなか日本人の本州に住む人は理解できません。

私も実家は宮城県の仙台、社会人になってからは外国と東京に住んでいたので、まさか高知県で鯨が見られるとは思っていませんでした。

池派と川派の先生たちも知らなかったのでしょう。邪馬台国は海とつながっていてそこの住民は航海に慣れ親しんでいてあちこちに自由に行けたのです。

黒潮の話が出てきたところで良い感じで第一回目の記事を終えます。第二回は次週を予定しています。